「今夜、夢の中で君に出逢う」を書きなおして、群像新人賞に応募しようと思っています。締切は、10月31日。
「半島のさき」は、最終章を書くと宣言してから、一行も筆が進んでいない。自分の中では、まだ、書いてはいけない文章なのかもしれない。衝撃的なラストにはなると思うのだけど、本当に、それを書いていいのかわからない。ただ、以前から三部作と宣言しており、そのラストが、実は、次の作品のスタートになるということである。まさに、「終わりは始まり」。
いま、構想を徐々にまとめているのは、もう少しラフな恋愛もの?
この3部作は、男性の視点で書いているので、次のシリーズは、女性の視点で物語を描きたい。
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ぼくが、この小説の構想を始めたのは、実は去年(2004年)の春のこと。松井彰彦さんの「市場の中の女の子(PHP研究所)」を読んで、ぼくは経済学の知識をベースに松井さんのような物語が書きたいと思ったのが、きっかけだった。
そういうわけで、実は、プロローグの初めの何行かは、去年の春に書いていて、それから一年間ぐらいの断絶があって、今年の春にもう一度、書き始めようと思って、改めて構想をしなおしたというものだ。
誰か一人だけ好きな作家を挙げてくださいと言われたら、ぼくは村上春樹さんを挙げるだろう。「ノルウェイの森(講談社)」が出版されたとき、ぼくは小学生とか中学生だった。その頃は、歴史物が好きで、あまり現代小説に興味を示さなかったから、ぼくが「ノルウェイの森」にたどり着いたのは、それから約10年後だった。初めて読んだ村上春樹さんの作品は、「国境の南、太陽の西(講談社)」で、二度目の大きな失恋をしたときだった。
「国境の南、太陽の西」、「ノルウェイの森」に登場した主人公は、いずれも一人っ子であって、昔付き合っていた彼女にも指摘されたように、その主人子の言動は、昔のぼくに重なる部分が多かった。そういう意味で共感した部分が多かったというのも、村上作品にぼくが魅せられた最初の理由だった。
ぼくは、米国に3週間ほど、勉強のために滞在したのだけれど、その出発の前日の夜に、ある人から村上春樹作品の「羊をめぐる冒険(講談社)」と「ダンス・ダンス・ダンス(講談社)」を薦められた。ぼくは、翌日に成田空港の書店で、計4冊の文庫を購入した。米国の電車は日本と違って、待ち時間が長かったし、乗車時間も長かったし、また就寝前に、ぼくはこの4冊を読んだ。そうした中で、ぼくは村上さんのような小説が書きたくなった。
この作品は、前半部分の「赤い蝋燭」編までを米国で、それ以降を日本で執筆した。まず、ぼくがしたことは、「夢」の世界をできるだけ忠実な絵にすることであった。そうして「夢」の世界観をしっかりした上で、「現実」の世界を描く努力をした。そうすることで、「現実」の世界から一歩離れた立ち位置から、つまり、あまりコミットをしない形で人間そのものを描きたかったのだ。この物語には、ふたつの視点があって、ひとつは「僕」の視点である。もうひとつは、物語を語る客観的な「ぼく」の視点である。ぼくは、ある部分では「僕」と同化し、ある部分ではストーリーテイラーとして、物語を語る。
この物語で、ぼくが書きたかったのは、人間の弱さだ。人間には、完全な人間なんていなくて、必ずどこかしらに欠落を持っているだろし、それが人間らしさなんだと思う。でも、それをぼくたちは、社会を行きぬく中で、その欠落をできるだけフォローするように努力をしている。自分の欠落を知っている人は素晴らしいと思う。たぶん、多くの人は、その欠落にさえも気が付いていないのではないかと思う。
そもそも人間の成長というものは、そうした欠落を認識すること、そして、その欠落をできるだけ小さくしたり、修繕したりすることなんだと思う。
この物語をぼくはある人に捧げたいと思って書き進めた。ぼく自身、この物語がどのようなメッセージを持つものなのか、わからない。また、それを自分自身で解説することもあまりしたくない。だから、ぼくが考えているメッセージとは全く違うメッセージをその人に伝えてしまうかもしれない。でも、ぼくは、その人にこの物語を捧げたいと強く思って書き続けた。
いつか、夢の中ではなくて、現実の世界で君に出逢えますように。
矢尾板俊平
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「じゃあ、手紙は捨てますからね」と言った。「よろしく」と僕は答えた。「ところで、なんで、レイコさんが僕の部屋に入れるんだっけ?」と聞いた。すると、レイコさんは、「無用心にも鍵が開いていたんですよ」と言った。僕は、戸締りはしっかりしたはずだった。
「ちゃんと、閉めていたはずなんだけど」と僕が言うと、「でも開いていました」とレイコさんは強く言った。僕は「おかしいなあ」と言いながら、夢の中で、鍵を開けたことを思い出した。
僕は、「レイコさん、今日は休みにしよう」と言うと、レイコさんは、「それが賢明ですね」と言った。
「どこかドライブに行こうか」と僕が言うと、「じゃあ、三浦海岸でも軽く」とレイコさんは答えた。「それはグッドアイディアだ」と僕が笑いながら言うと、レイコさんも笑った。
とりあえず、僕は今、生きている。辛いことや悲しみがあったとしても、それを正面から受け止めて、そして喜びと楽しさを、小さいながらも見つけながら、一日を生きていこう。何も格好付けることなく、着飾ることなく、僕は僕のままで。車を走らせながら、僕はそう思った。
そして、ドライブから戻ってきたら、なつこさんに電話をして、会う約束をする。そして、僕の気持ちを伝えることにしよう。
「僕は君のことが好きで、僕は君のことが必要だ」と。
END
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レイコさんは、「えっ?」と、その呟きを確認するように、言った。僕は、「レイコさんに、キスをしてもらえるなんて、感激だよ」と言った。レイコさんは、少し怒った感じで、「キスなんかしていません。ただの人工呼吸です」と言った。
「人工呼吸?僕は溺れていたの?」と聞くと、「人に心配だけかけて、のんきなもんですね」と怒った。そして、「心配して損した。死んじゃえば良かったのに」と言った。
僕は、横になりながら、「ごめん。ごめん。今日は、何日?」と聞いた。
レイコさんは、「一晩だけしか経っていないですよ。今朝、一緒に旅立とうとして事務所で待ってたんですけど、なかなか社長が来なくて、もしかすると、と思って、部屋に来たら、案の定、一人だけ旅立っていて。置手紙なんかもしちゃって」と言った。
「今、何時?」と、僕が聞くと、「13時です。大幅な寝坊ですよ。普通だったら」と、レイコさんは答えた。僕は、「ごめん。ごめん」と言った。
「それで、解決したんですか?」とレイコさんが聞いた。僕は、「たぶん」と答えた。
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僕が目を覚ますと、そこにはレイコさんが心配するように、僕の肩を揺すっていた。僕は目を開けながら、その様子をぼんやりと眺めていた。暫く、言葉を発することさえもできなかった。
レイコさんは、僕のおでこを平手で叩いた。これはさすがに痛かった。でも、「痛い」という言葉は、出せなかった。
次に、レイコさんは、僕の頬を何度も平手で叩いた。これもさすがに痛かった。なすがままの状態で叩かれているのは、嫌なものだが、抵抗しようが、言葉を発しようとしようが、それが全くできなかったのである。
しかし、痛みは強く感じられた。僕は、確かに生きていることを感じている。肉体は消滅していれば、痛みを感じることさえもない。僕の意識と肉体は確かにここに存在するのだ。
レイコさんは、瞳に涙を溜めながら、キスをした。柔らかくて、優しいキスだった。僕は、ようやく言葉を発することができるようになり、「感激だ」と、小さな声で呟いた。
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僕は、泣いた。でも、泣き声は音にはならず、当然、周囲には響かない。無声映画のワンシーンのように、僕は泣いた。身体が上下左右に吸引されるような感触を受けた。確実に僕は何かに押しつぶされそうになっている。むしろ、この世界、世界という概念さえ、通じるかわからないけれど、この空間に変動が起きようとしていた。世界の消滅、空間の消滅。全てが無に帰ろうとしている。そんなことが脳裏に浮かんだ。僕は、その世界の動きに身を任せるしかなかった。僕は目をつぶり、身を委ね、宇宙遊泳のような浮遊感を得て、漂った。そのとき、僕の胸ポケットに入っていた携帯電話のストラップの鈴が無情に鳴り響いた。最初は静かに弱く、そして段々と強く。レイコさんにもらった鈴付の熊のストラップであった。僕は、目を開けた。そして、一度は諦めた気持ちを再び奮い立たせて、もう一度、現実の世界に戻ることを強く願った。「僕は戻りたい。そして、レイコさんに、なつこさんに会いたいんだ」と、叫んだ。僕の身体が縦横無尽に伸ばされたり縮まされたり、圧力を受けたり、膨らまされたり、浮かんだり、沈みそうになったりした。それでも、気持ちは、「必ず現実の世界に戻るんだ」ということだけは変えなかった。
少しずつ、小さな声が聞こえてきた。徐々にはっきりと、「社長!」という声だった。レイコさんの声だった。僕は、声のする方に、平泳ぎのような形で、少しずつ向かっていった。目の前には、ユキコさん、ユミ、山口さんの顔が浮かんでは消えた。また、麻衣やレイコさん、なつこさんの顔も浮かんだ。漆黒の暗闇の中、レイコさんの声のする方向に一筋の光が見えた。僕は全身の力を思いっきり使って、光を掴むように、手を伸ばした。何度も失敗したが、諦めないで、僕は手を伸ばした。
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僕は、「なつこさん」と、なつこさんらしい影に声をかけた。なつこさんは、にこっと笑った。僕は、「ねえ、なつこさん、僕は、今夜、夢の中で君に出逢えて嬉しいよ」と言った。
なつこさんは、「私もよ」と答えた。
「なつこさん、大事な話があるんだ。なつこさんには迷惑な話かもしれないけど、僕は君のことが好きなんだ。君と一緒に、日常の生活の中の小さな幸せをひとつずつ感じて、過ごしていきたい。僕は小さな人間だけど、もしかすると、君に負担をかけてしまうこともあるかもしれないけど、支え合って生きていきたいんだ。僕には、君が必要なんだ」と言った。
その瞬間、僕の周りを、闇が支配した。自分の存在すらかき消させられるような深い闇だった。僕は身動きが取れず、そしてどの方向に向かえばいいのか、全く理解ができなかった。その闇は、音さえも失わせた。静寂と暗闇。僕は、自分の肉体が消滅すること、さらには意思さえも消滅することを覚悟した。それだけの闇だった。
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ユミは、笑った。そして、ユミの姿は徐々に消えていった。僕は、「大事なことを教えてくれてありがとう」と言った。そして、僕は、いつのまにか現れていた白い家の鍵を開けた。
「ねえ、ユキコさん。ユキコさんのことは今でも好きだよ。僕は、ユキコさんとの思い出やこの気持ちを、今までは思い出そうとすれば辛かったから、なるべく避けてきた。そして、同じような想いをしたくないという気持ちを持ったまま、僕はいろいろな人と恋愛をしてきた。でも、それは、いつまでも自分の殻に、自分の世界に留まったまま、自分勝手な恋愛だったんだ。僕は、ユキコさんとの思い出やこの気持ちを、もう逃げることなく、正直に、真正面から受け止めて、自分の殻や世界から飛び出すことにするよ」
ユキコさんは、泣いていた。「ユキコさん、ありがとう」と、僕は笑顔で言った。すると、ユキコさんの姿は徐々に薄くなり、消えていった。
僕は視線を遠くに移した。すると、遠くの方に、なつこさんの姿が見えた。
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「そう、君は白い家から出ようとしなかった。誰かが無理矢理、鍵をこじ開けようとすると、君は一生懸命に、鍵を閉めなおして、ドアを必死に開かないように努力する」
「そうだね。そんな夢を何度も見るよ。ユミ、君もここにいたんだね」と、僕は言った。
その声は、ユミのものだった。
「僕は、何度も夢の中で、君にもういちど逢って、君に謝ろうとしていた。でも、それは違うんだ。君は、白い家の外の海に向かって、旅立っていった。僕は、それを追いかければ、ただ未練がましいと思って、君をあきらめることが美徳だと思った。もちろん、君を追いかけても、君をもう一度、取り戻すことはできないだろう。でも、重要なのは、その白い家から出ることだったんだ。君は、それを僕に教えようとしれくれたんだ」
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「私は死んだんじゃない。肉体を消滅させることで、永遠の命を手に入れたの。全ての不幸から解放されて、喜びと楽しみ、幸せしかないこの世界で永遠に生きるために」
「ねえ、ユキコさん。それを死と呼ぶんだよ。それに、もしあなたが幸せになることが、その死の目的であったとするならば、その代償はとてつもなく大きかったんだ。あなたからの手紙には、不倫のこと、僕と寝ていた理由、全てが書かれていた。そして、僕のことを愛してくれていたということも。真知子は、頭で理解しても、感情では理解できなかった。だから、僕を責め、自分を責めたんだ」
「僕は、この場所で、あなたに出逢って、初めて気が付いた。僕の欠落は誰のせいでもない。いろいろなことを理由にして、僕が自分の殻の中で、閉じこもっていたこと自体なんだ。それを心の底のどこかで、あなたのせいにして、ユミのせいにして、麻衣のせいにしていただけなんだ。僕は、その殻を打ち破って、何も着飾ることなく、素のままの自分で外に出なければいけないんだ。ずっと、僕はそれができていなかった。それが僕の欠落なんだ」
ユキコさんは、泣き崩れたていた。そのとき、隣から声が聞こえた。
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「真知子があの後、どうなったのか知っているよね?」と、僕は聞いた。
ユキコは、「知らないわ」と言った。僕は、「真知子は、あの手紙を読んだ後、錯乱して、自殺未遂をした。そして、あなたの残した家族は、僕の街から消えた。僕が大学を卒業する頃、真知子が毎晩新宿で働いているという噂を耳にした。彼女は、彼女なりにあなたを失った重みを無意識のうちに抱えて生きている。あなたが真知子に与えた理不尽な罪を彼女は必死に償おうとしているんではないか、彼女は彼女なりの方法で、自分の欠落を埋めようとしているのではないかと思うんだ」
「私は、あなたと一緒に、ここにいたいの」とユキコさんは言った。
「ねえ、ユキコさん。それは無理だよ。だって、僕は生きている。あなたは、すでに死んでいるんだ。あなたの肉体は消滅し、意思だけが存在している。あなたは、自分でもよく理解していると思うけど、あの日、あの夜、自分で自分を殺したんだ。あの手紙を残して、あなたは湖に身を投げた」
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僕は頷いた。「僕は、長い間、あなたのことを忘れようとして、そして、あなたとの恋愛にけじめをつけないで、新しい恋愛に逃げこむことだけを考えていたようだ。どこか、いつもあなたの影を追っかけていたようだ。僕は、あなたのことが好きだよ」
ユキコさんは、「嬉しいわ」
「でも、僕は戻らなければいけないんだ。ここは僕が住む場所ではない。僕は、この欠落を埋めて、この穴の入り口を閉じ、僕は本来生きるべき場所でユキコさんの分も、ユミの分も、そして山口さんの分も生きなければいけないんだ。それが、僕がユキコさん、あなたに対する償いであり、そんな個人的な問題に巻き込んでしまったユミや山口さん、そして僕が傷つけてしまった麻衣への責任なんだ。この責任は僕でしか果たせないんだ」と僕は言った。
「そして、真知子も解放してあげなくちゃいけない」と僕は言った。
「真知子?」と、ユキコさんは言った。
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「それで、奪おうとしたんだね」と僕は言った。
「最初、君と寝たのは、当てつけよ。真知子と彼に対する当てつけ。でも、私が君のこと好きだというのは嘘じゃないのよ。好きでもない男といくら当てつけだって言っても寝ないわよ」とユキコさんは言った。
「ねえ、ユキコさん。僕はあなたに裏切られたこと、傷つけられたこと、そんなのどうでもいいんだ。僕が、当時、あなたに利用されていたとしても、僕はあなたのことが好きだったし、愛していた。世界で一番あなたのことを愛していた。あなたがいなくなり、あの手紙を読んで、全てを知った後でさえ、僕は悲しみこそすれ、あなたを憎む気持ちはなかった」
「今でも、その気持ちには変わらない?」と、ユキコさんは言った。
「ねえ、ユキコさん。僕はね、あのとき、あなたを失ったこと、今でも後悔している。自分の無力さがつくづく嫌になった。あのとき、僕は高校生で、あなたは大学生。今なら、あなたを守ることができるけど、あのとき、どうやってもそれは無理だった。だからこそ、僕は自分に言い訳ができないんだ。「がんばった」とか「努力した」とか。絶対的な絶望と後悔だけが残ったんだ。それを、この十年間、僕は心のどこかで一生懸命に忘れようとした。そして、その穴を埋めようとしていたんだ。でも、どうしても埋まらなかった。その僕の欠落が、多くの人々を傷つけた。僕は、もう人を傷つけるのはこりごりだ」
ユキコさんは、「私のこと、まだ愛しているの?」と聞いた。
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「最初、あなたを誘ったのは、寂しかったからよ。彼と会えなくて、寂しかった。なぜ、私がこんな想いをしなければいけないのか、世の中が憎かったわ。不倫って、辛いのよ。クリスマス、お盆休み、お正月、恋人なら本来一緒にいられる瞬間、彼は家庭に帰るの。私は一人ぼっちなのよ」と、ユキコさんは言った。
「確かに、クリスマスとお正月は、僕と一緒にいたね。あなたの誕生日には、なぜか会えなかった」と、僕は少し笑いながら言った。
「真知子は、いろいろな男の子から言い寄られても、友達以上の関係の子はいなかった。そこに、真知子が好きなんだろうと確信できる男の子が現れた」とユキコさんは言った。
「それが、おこがましいけど、僕だったわけだね」
「真知子は幸せなのに、私はなんでこんなに不幸なの?不平等じゃない。同じ両親から生まれて、同じように成長してきたのに、真知子はいつも褒められて、私はいつも「お姉ちゃんなんだから」って、怒られて。恋愛もうまくいかないなんて。ひとつだけでも、真知子よりも幸せになることがあってもいいじゃない」
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「比較される辛さを知らないからよ」とユキコさんは言った。「いつも比較されるの。真知子が生まれてきてから、何は真知子がうまいとか、ユキコは何ができないとか。君には、お兄さんも弟もいないから、兄弟で比較される辛さはわからないでしょうね」
「そうだね。僕には、兄弟がいないから、兄弟で比較されることはわからない」と僕は言った。「ユキコさんは、真知子に一泡吹かせたいと思って、あのとき、真知子が好きだった僕と寝たの?」と僕は聞いた。「それとも、例の不倫相手との関係がぎくしゃくしていたから?」
ユキコさんは、「どっちもよ」と答えた。
ユキコさんは、当時、ある銀行でアルバイトをしていた。そして、その銀行の部長と一年近く不倫関係にあった。最初に、僕がユキコさんと寝た日、ユキコさんはその部長とデートする予定だったのだが、子どもが急に熱を出したということで、ドタキャンになって、帰ってきたところに、僕と会ったのであった。それを知るのは、だいぶ先のことで、ユキコさんからの手紙であった。
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僕は、「ねえ、残される者の気持ちは考えなかったの?あのとき。例えば、僕の気持ちとか。あなたにとって、僕との関係は恋人とかじゃなくて、ただあなたの気持ちを慰めるものでしかなかったのかもしれないけど、僕はあなたのことを好きだった。でも、僕がもっと辛かったのは、あなたは真知子を心から傷つけたんだ」
ユキコさんは、「手紙のこと?」と聞いた。僕は、「うん」と答えた。
「真知子は、君のこと好きだったのよ」とユキコさんは言った。「真知子は、何でも出来た。勉強もスポーツも。顔もきれいだし、みんなから可愛がられた。望むものは何でも手に入れることができた」
僕は、「ねえ、ユキコさん。僕は、あなたもとっても美しいと思うよ。テレビドラマや映画で主役をしたって不思議じゃない。小西姉妹は美人で器量が良くて、僕たちの街では本当に有名な姉妹だったんだ。僕の友達はみんながユキコさんに憧れ、真知子を好きだった」
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僕は、目の前のユキコさんに、「やあ、ユキコさん、久しぶり」と言った。目の前のユキコさんは、昔のままのユキコさんだった。「私は、いつも君のこと見ていたのよ」とユキコさんは言った。僕は、「それは光栄だ」と言った。
ユキコさんと僕は、冬の半ばまで、度々会っては、セックスをした。「付き合っている」という状態なのかわからないけれど、僕は確かにユキコさんを愛していたし、ユキコさんは僕をいつも受け入れてくれた。
ユキコさんは、「懐かしいわね。もう何年前かしら」と聞いてきた。僕は、「もう10年前ぐらいになるんじゃないかな」と聞いた。ユキコさんは、「そうね。こちらの世界にいると、時間の感覚なんて全く感じないから、わからなくなるわね」と言った。僕は、「ねえ、ユキコさん、あなたは、あなた自身の状況を理解しているの?」と聞いた。ユキコさんは、「もちろんよ。私は私自身の選択で、自らこちらの世界に来たの」と言った。僕は、「それで、何人もの人が傷ついたことも知っている?」と、僕は聞いた。ユキコさんは、「それも知っているわ。でも、私がこのようになって、本当に悲しむ人なんかいるのかしら」と言った。僕は、「少なくとも僕はとても悲しかったし、あなたを失うことに堪えられなかった。真知子も傷ついた。きっと、あなたの両親もとても悲しんだ」と言った。
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翌日、学校に行くと、真知子はいつもと同じように、僕に話しかけてきた。「昨日は、届けてくれてありがとう。とっても良かったよ」と言うと、僕は、少し驚きながら、「えっ?」と聞きなおした。「例の文章よ。とても良い出来映えだったわよ。ありがとう」と言った。僕は、「ああ、そのことか。どういたしまして」と言った。真知子は、「他になんかあったっけ」と、不思議そうな感じで尋ねた。僕は、「いや、何でもない。お姉さんは元気?」と聞いた。ユキコさんが真知子に、どこまで話しているのかがわからなかったので、用心深く聞いてみた。
「元気よ。もしかして、お姉ちゃんのこと、好きなの?」と、少し苦々しく聞いてきた。僕は、「いや、そんなことないよ。昨日、届けたら、お姉さんと会ったからさ」と答えた。真知子は、「変なの」と言った。
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長い時間が経った。長い時間と言っても、きっと、5分とか日常的には短い時間であったに違いない。しかし、僕には、そのとき、その5分でさえも、何時間にも感じたのだった。
ユキコさんは、僕に覆いかぶさったまま、小さな声で「気持ち良かった?」と聞いてきた。僕は、「言葉にならないぐらい」と答えた。彼女は、「初めての感想は?」と続けて質問するので、僕は「生まれてきて良かった」と答えた。ユキコさんは、くすっと笑い、「嬉しいわ」と言った。そして、ユキコさんは、僕の両方の腕を自分の背中に回して、「少しの間、抱きしめていて」と言った。僕は不器用に彼女を抱きしめた。「こんな感じでいいのかな」と言うと、彼女は「いいわ」と言った。
僕は、その日は、真知子が帰宅する前に、帰った。僕はもっとユキコさんの温もりを感じていたかったし、ユキコさんもそれを望んでいたのだが、なぜか、真知子に顔を合わせたくなかった。僕はユキコさんに、そのことを言うと、ユキコさんは、「わかるわ」と言った。そして、「また、二人で会いましょう」と言って、ユキコさんはポケベルの番号を教えてくれた。
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僕は、「ユキコさんは、本当に魅力的な女性だと思います」と言うと、彼女は「ありがとう」と小さく囁き、僕の口唇に彼女の口唇を重ねた。僕は、思いっきり目を見開いた。僕は、自分に起きている出来事を理解することが、とてもではないが不可能だった。そのうち、彼女は自分の舌を僕の口の中に入れて、僕の舌に絡ませた。僕は、目をつぶって、不器用に僕の舌で彼女の舌をなぞった。そして、彼女は口唇を離し、「ねえ。私としよう」と言った。
僕は、そのまま後ろに倒れて、彼女が上になった。彼女は、僕の着ているものを少しずつ剥いでいき、自分の着ているものを脱いだ。僕は彼女に誘導されるがままに、彼女の身体を撫でた。彼女は、手で僕のペニスを持ち、自分の中に導いた。そして、彼女と僕はひとつとなった。彼女は僕の上に乗ったまま、ゆっくりと腰を動かし、僕は今まで雑誌などで得た僅かな知識を頭の中でいろいろと思い出そうとしたが、その前に、僕は彼女の中で果ててしまった。僕が果てると、彼女はそれを全て受け止めて、そして、受け止めた後、彼女は力が抜けたように僕に覆いかぶさってきた。僕も全ての力が脱力して、呆然と天井を見つめていた。
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「ねえ、私、君のこと好きよ」と、ユキコさんは言った。僕は、何かの聞き間違いではないかと思って、「えっ?」と聞きなおした。
「まだ、会って間もないけど、なんだか、君のことが気にかかるというか、とっても可愛く思えるの」
僕はしどろもどろにたじろいで、どうしたら良いかわからなくなった。
ユキコさんは、僕の隣に座って、耳元で囁いた。
「ねえ、君、初めて?」
僕は、声も出せず、ただ頷いた。ユキコさんは、少し笑みを浮かべながら、
「君は、私のこと嫌い?」と聞いてきた。
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「僕は、歴史の勉強をしてみたいです」
「歴史というと、日本史?世界史?」と彼女が聞くと、僕は「四大文明とか。文明の起源とか、そういうのを勉強したいです」と答えた。
「考古学ね。それって、素晴らしいわ」と、ユキコさんは言った。
僕は、少し心が躍るような感じで「素晴らしいですか?」と聞いた。
「しっかりと、自分のやりたいことを持っているって、素晴らしいじゃない」と彼女は言った。僕は少し照れながら、「ありがとうございます」とお礼を言った。
「君って、かわいいわね」と彼女が言うと、僕は本当に恥ずかしくなり、身体が小さくコンパクトにまとまりそうな感じになった。
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真知子の家に着くと、ユキコさんは、僕をリビングに通した。そして、僕をソファに座るように言い、彼女はお湯を沸かして、紅茶を入れてくれた。そして、少しおしゃれな洋菓子をすすめてくれた。僕は、緊張しながら、紅茶の煙をただ見つめていた。
ユキコさんは、クラシックのCDをかけた。「君、クラシックは嫌い?」と聞いた。曲は、ヴィヴァルディの楽曲だった。僕は、「ヴィヴァルディは好きです」と答えた。彼女は、顔に笑顔を浮かべた。
僕は、「お姉さんは、大学生なんですよね」と尋ねると、彼女は「そうよ」と答えた。
「大学って、どういうところなんですか?あまり実感がわかなくて。楽しいところですか」
「うーん。総じて楽しいところだと思うわよ。高校のときに比べると、歴然と活動範囲は広がるし、いろいろな人がいる。講義もいろいろな講義がある。サークルとかもあるけど、やっぱり興味のあることを専門的に勉強できるということが良いと思うわ。君は、将来の夢とかあるの?」
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「マチコに用事があるの?」と彼女は聞いた。「はい。この前、頼まれた仕事が出来上がったので届けに来たんです」と答えると、ユキコさんは、少し困った顔をして、「あら、どうしようかしら。マチコは今日、両親と出掛けているのよ。帰ってくるのは、遅い時間になると思うわ」と言った。「それじゃあ、明日、学校で渡すことにします」と、僕は帰ろうとすると、「せっかく、来てくれたんだから、お茶でも飲んでいかない?マチコはいないけど、私も少し誰かとお話をしたい気分なの」と、ユキコさんは僕を呼び止めた。僕は、ユキコさんに背中を向けたまま立ち止まってた。そして、頭の中や心の中が、いろいろなもので溢れかえって、ごちゃまぜになって、何がなんだかわかならなくなっていた。
「もし、何か他に用事とかがあるなら、無理には引き止めないけど」とユキコさんは言った。僕は、恥ずかしがりながら振り向いて、「もし宜しければ、お邪魔させてください」と言った。
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バスの窓からは、小さな子どもは黄色い雨合羽を着ていて、母親と一緒に歩いている姿が見えた。僕は、その姿を微笑ましく眺めていた。
真知子の家の近くの停留所にバスが着いたとき、ちょうど、反対側の停留所にもバスが着いた。そのバスから、真知子のお姉さんのユキコさんが降りてきた。彼女は、バスを降りたあと、道路を渡ろうと、信号が変わるのを待ち始めた。僕は、ユキコさんの姿を見て、なんだか嬉しくなるというか心がドキドキして心拍数が高まった。そして、少し呆然とユキコさんのことを眺めていた。すると、ユキコさんは、僕に気が付いたらしく、僕に向かって手を振った。僕は恥ずかしがりながら、頭を下げて、会釈した。
信号が変わると、ユキコさんは、こちらに渡ってきた。僕の心拍数は最高潮になった。ユキコさんは、「こんにちは」と言った。僕も「こんにちは」と言った。
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「お姉ちゃん、お帰りなさい。この人は、高校の同級生。いま、生徒会の手伝いをしてもらっているの」と、真知子はユキコさんに、僕を紹介した。ユキコさんは、優しく僕に「こんにちは」と言って微笑んだ。僕は、「こんにちは」と恥ずかしがりながら、挨拶をした。
21時30分ぐらいになって、僕は真知子の家を辞すことにした。文章は僕が自宅で作ることになったので、宿題として持ち帰ることにした。
僕は、真知子の母親に夕食のお礼を言い、ユキコさんにも挨拶をして、真知子の家を出た。僕は、なんだかよくわからない心のモヤモヤを感じた。
日曜日、僕は、真知子に課された宿題が終わったので、真知子の家に届けようとした。雨が降っていたので、僕はバスに乗った。夏の雨。僕は意外と好きだった。冬の雨は、とても冷たく、寒い冬空の下では気分も鬱っぽくなる。夏の雨は、確かに傘は面倒だけども、夏の暑さを和らげてくれるし、気分のいいものではないけど、水不足の心配もしなくて良いし、何かと助かるものだった。
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「今度の文化祭に向けて、パンフレットを作るの。あなた文章を書くのうまいでしょ。だから、いろいろと文章のアイディアを書いて欲しいのよ」と、真知子は言った。
「うーん。なんだか面倒だな」
「つべこべ言わないの。どうせ暇なんだから。手伝ってくれたら、ドルチェ・ドルチェのケーキをご馳走するからさ」
ドルチェ・ドルチェのケーキは、近所ではおいしくて有名で、特に、ここのチョコムースケーキは絶品だった。僕は、ドルチェ・ドルチェのケーキの誘惑に負けて、なし崩し的に乗り気になった。
「ケーキのために、がんばりますか」と僕が言うと、真知子はくすっと笑った。
夜の21時を回る頃、真知子の姉のユキコさんが帰宅してきた。彼女は、大学に通う女子大学生だった。
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「ねえ、あなたも何か部活動とかしなさいよ」と、真知子は僕に言った。「スポーツは苦手なんだよ」と僕が言うと、真知子は、「スポーツじゃなくても、文化系の部活があるじゃない」と言ったので、僕は「あんまり、好きじゃないな」と答えた。すると、「もうどうしようもない人ね、じゃあ、生徒会の活動を手伝いなさい」と言った。僕は生まれて初めて「どうしようもない人」と言われたことに対して、いささかの不満を持つと同時に心が傷ついた。「どうしようもない人だなんて。こんな未来ある少年にどうしようもない人だって、言った!」と、幼児が駄々をこねるように抗議をした。
すると、真知子は、「あなたって子どもみたいね」と、呆れながら笑った。「これから私の家に来てよ。手伝ってもらいたいの」と言うと、僕は少し顔を赤らめて、「女性の家になんて行けないよ」と断った。「何を期待したのか知らないけど、私の家に来たところで、あなたが今想像しているようなエッチなことは、絶対に起きないから安心しなさい」と真知子はほとほと呆れたように言った。
僕は、渋々、真知子の自宅に行った。玄関を入ると、真知子の母親が出てきて、まずは食事でもしなさいと夕食を勧めてくれた。夕食を真知子と一緒に食べた後、リビングで罫線の入ったメモ用紙を広げた。
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小西由希子。彼女は、僕にとって初めての女性だ。
僕が高校生のとき、隣の席の女の子は、小西真知子と言った。彼女は、勉強もでき、スポーツも万能で、生徒会活動なんかにも積極的に参加する絵に描いた優等生だった。将来は、ノーベル賞級の科学者か金メダリストかと言われていた。僕は、あんまり勉強ができないし、スポーツもそんなに得意ではない。まず、天才科学者になることはないだろうし、プロの野球選手やサッカー選手になることもないだろうと話題にもならなかった。
クラスの中では、席が隣同士ということもあり、「月とすっぽん」とか言われて、比較された。特に数学の先生から、「ピンキリコンビ」と揶揄されたときは、少なからず腹が立ったものだ。
そんな、出来の違う二人であったが、なぜか真知子は僕に興味を持った。自宅も近かったせいか、時々、帰りの電車が一緒になったりした。もちろん、彼女は部活動なり生徒会活動が終わった後であったが、僕は友達とゲームセンターで遊んだ帰りだった。
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僕は、写真から目を天井に移して、ぼんやりとその女性の名前を思い出そうとした。少し目を閉じたり、開けたりしながら、一生懸命に。
すると、突然、「ユキコ」という単語が脳裏に浮かんだ。「ユキコ」と、僕は少し呟いてみた。「ユキコ、ユキコ、ユキコ・・・」、僕は何度もその単語を呟いた。「ユキコ、コニシユキコ、小西由希子!」、僕は少し大きな声でその名前を呼んだ。そうすると、僕の横から、
「やっと、思い出したのね」という声が聞こえた。僕は、驚いて、慌てて、横を見ると、小西由希子が笑って座っていた。
「やあ、ユキコさん」と、僕は少し引きつった笑いをしながら、ユキコさんに声をかけた。ユキコさんは、「お久しぶり」と言った。
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僕は、ここからどこに行けばいいのだろうかと思った。波止場からは、一本の道が延びていて、その道の向こうには街のようであった。とりあえず、僕はその街に向かうことにした。
とにかく、僕は思いつくままに、波止場から続く一本道を下っていった。西洋風の古い建築物と和風の木造建築が碁盤の目を覆うように混在をしていた。あるところは、エーゲ海沿岸の港町であるように思え、あるところは、明治時代の日本の港町であるような錯覚のようであった。
僕は、無意識に、ある和風酒場の看板を目にした。特に、その酒場を探していたわけではなかったが、何か注意をひくというか、気にせずにはいられない場所であった。ふと、喉の渇きも覚え、その酒場で、軽く喉を潤そうと思った。
酒場の入り口を入ると、中も和風で、囲炉裏がいくつか点在していた。僕は、靴を脱ぎ、畳の上に上がり、大黒柱の近くの囲炉裏に腰を下ろした。僕は、後ろに手をつき、少しリラックスして、冷酒を注文した。僕は冷酒を待っている間、店の周りを見回すと、はっきりとはわからない絵が飾ってあったり、写真が飾ってあった。後ろについていた手を、僕は少し横にやると、大きな巾着袋にぶつかった。僕は、その大きな巾着袋に興味を抱いた。僕のものではないのだが、無性に中身を空けてみたくなった。誰かの忘れ物だろうと思いつつ、僕は店主の目を盗んで、その巾着袋を開けてみた。そうすると、袋の中には、いくつかの写真や手紙が入っていった。写真のひとつを取り出して、写真を眺めると、僕はおぼろげながら、その写真の女性を知っているような気がした。その写真を見つめれば見つめるほど、その女性を知っていることに確信を持つようになった。「誰だっけ?」
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僕がようやく光の糸を掴むと、糸が引っ張られた。そして、僕は引きずられるようになった。
ようやく、光の出口が見えた。しかし、それはとてつもなく小さなもので、僕の身体の大きさに比べれば、どうやっても出ることができるものではなかった。しかし、光の糸はそんな事情に構うことなく、僕を引きずり続けて、僕は身体の一部がその出口にこすられながら、また圧縮されるような形で、思いっきり、出口の外から引っ張られた。
勢い良く、僕はその出口から飛び出した。その瞬間、熊のストラップが切れ、熊が穴を塞ぐように落ちていった。そのとき、出口の外で待っていた蝋燭屋の店主は、「穴を閉めるぞ」と叫んだ。僕は、目で合図をして、そのまま上に吸い上げられていった。
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「わかりました」
「気をつけてな」
僕は、頷いて、穴に飛び込んだ。僕は、一面の緑と河と橋が見える景色に吸い込まれていった。
僕は、景色に吸い込まれている間に、気を失ったようだった。雲の上から落ちていく感覚は途中まで感じていたが、その後、全く無感覚になったし、記憶も失われていた。
僕が目覚めたとき、そこは波止場だった。大きな船がその波止場に止まっており、その船に団体客のような集団が寡黙に規律を守って、並んで、乗船していた。僕は、少し頭がぼやけていて、その風景を眺めていた。
少し頭がはっきりしてくると、この波止場には音がないことに気が付いた。周りには多くの人がいる。しかし、話し声は全く聞こえてこないし、生活音も聞こえてない。音的なものが全く存在しないのであった。
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雲の下の憧憬は、大きな森、きれいな緑色が隙間なく一面に広がっている。その真ん中には大きな河が流れている。この河の水は、ここから見ても、とても透き通った青であった。どこかでこのような写真を見たことがあった。アマゾンの写真だと思った。しかし、アマゾンのように深い色ではなく、僕がいま見ている景色はとても澄んだ明るい色であった。
また、森の上には、大きな回廊があった。ところどころにデッキがあり、永遠に続く橋のような道であった。
僕は、「ここはどこですか?」と聞いた。店主は、「名もなき土地だ」と言った。そして、「この雲の穴は、お前自身が空けたものだ。あとは、お前がこの穴から下に降りるか、このまま、戻るかだ」
「僕は、もう決断したんです。行きますよ。でも、ここから降りていって、どこに行けばいいのですか?そして、僕はどこで何をすればいいのですか?」
「それは、誰にも教わることなく、自然に展開する。お前は、誘惑に負けない強い信念と、「必ず帰るんだ」という気持ちだけを持っていればいい。お前の心が折れたとき、この雲の穴は再び閉じられてしまう」
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僕は、青や赤、黄色のもやもやの中に立っていた。所々、青と黄色が混ざって緑になっていたり、青と赤が混ざって紫になっていたり、赤と黄色が混ざってオレンジになっていたりした。僕は、重力を感じさせないこの空間で漂っていた。
少し先に眩しい光が微かに見えた。僕は、その光に導かれるように、その方向に向かっていった。徐々に光は強くなり、やがて大きくなった。
そこに蝋燭屋の店主がいた。僕は「こんにちは」と挨拶をした。
蝋燭屋の店主は、「一人で来たのか」と言った。僕は、「これは僕自身の問題で、僕の問題は僕が責任を取らないと。レイコさんを巻き込むことはできませんから」と答えた。店主は、「そうだな」と言って、頷いた。
僕は、「僕はこれからどこに行くのですか?」と聞いた。店主は、「ここからは一人だけの旅になる。私もこれ以上は進めない。足元を見てみろ」と言った。この無重力空間で、どちらが上なのか、どちらが下なのかはわからなかったが、足の先を見てみた。そうすると、ぽっかりと雲に穴が開いていて、その下の景色をのぞくことができた。
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これをレイコさんにFAXで送ってもらえば良い。緑のポストイットに、その旨を書いて、文書の上にくっつけた。
4つの手紙をテーブルの上に並べて置いた。そして、僕は窓を閉め、火元を確認してから、ベッドの上に移り、ベッドのサイドテーブルに灰皿を置いた。その灰皿の上に黄色い蝋燭を乗せた。
僕は、両手で顔を軽めに張って、気合を入れた。そして、周りを見渡し、もしかすると、もう二度と見ることができないかもしれない風景を目に焼き付けた。
僕は、「行ってきます」と小さく言い、蝋燭に火を灯した。
そして、ゆっくりと目を閉じて、僕は初めて自主的に夢の世界に落ちていった。
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でも、ナカノさんとコバヤシさん、マエハラさんにお別れの挨拶をすることは、それほど重要ではない。
それよりも、別れの挨拶を済ませていない人は、仕事関係だけでもかなり多くいた。本当であれば、一人ずつに手紙を書くべきであろうけれども、僕は申し訳ないとは思いつつ、こんな手紙を書いた。
皆様
前略
いつもお世話になっております。このたび、大変不思議なことなのですが、私は死亡しました。つまり、肉体的な消滅をしてしまいました。
何、ふざけているんだとおっしゃるお方もいらっしゃると思います。僕も、科学的、論理的に、なぜこういうことになったのか、わかりません。しかし、事実として、私は、もう皆さんとお会いすることができなくなったのです。
詳しいことは、弊社の竹下にお尋ねください。連絡先は、弊社(03-××○△-○△□×)まで。
皆様のご健康とご発展をお祈り申し上げます。
今後の弊社のことは、竹下に全て任せておりますので、今後とも、弊社をよろしくお願い申し上げます。
草々
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麻衣への手紙を書き終えて、僕はグラスの中のボーモアを飲み干した。そして、窓から流れ込んでくる夜風を受け止めて、僕は月を見上げた。夜空を見上げるなんて、いつ以来だろう。僕は、感慨深くなっていた。冬は東京でも夜空を見上げれば、オリオン座や北斗七星ぐらいの大きな星であれば、見ることができるが、夏は、あまり星が見えない。僕が星を見ようとしていないのか、そもそも見られないのか、それはわからないのだけれども。だから、秋口に、ふと夜空を見上げて、オリオン座が目に入ったときは、冬の訪れを知り、そして寂しい気持ちになる。冬は、やはり「滅び」の季節である。春は「誕生」もしくは「再生」、夏は「成長」、秋は「実り」、そして冬に「滅びる」。季節は人生のように循環する。だから、冬になると僕はとても悲しい気持ちになる。次の春がとても待ち遠しくなる。
ふと、僕は、僕の家の近くにあるコンビニエンストアに勤めているナカノさんとコバヤシさんのことを思い出した。話をしたことすらないが、僕は少なからずナカノさんとコバヤシさんに好意を持っていた。そして、近くの本屋さんに勤めているマエハラさんのことも思い出した。3人は今日も元気でいるだろうか。帰り際に、コバヤシさんは、いつもと変わりなく、コンビニエンスストアのレジに立っていた。彼女に別れの言葉を伝えなかったことを、いまさら、後悔した。
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二人に手紙を書いて、さらにまだこの現実の世界に存在している麻衣にも手紙を書くことにした。
安嶋麻衣 様
前略
久しぶりに手紙を書きます。いつ以来でしょうか。君には僕の話を信じてもらえないかもしれないだろうけど、これを君が読んでいるということは、僕は肉体的に消滅したということだと思います。ある人の話だと、僕は別の世界で不死を得て、意識は永遠に存在し続けるということです。
詳しいことは、僕の会社の竹下礼子が説明できると思いますので、もし、まだ僕に興味があれば、連絡をしてみてください。事務所の電話番号は、03-××○△-○△□×です。
最近、僕は君の夢を見たよ。君と最初に出会ったころ、付き合っていたころ、そして君を傷つけてしまったこと。僕は、本当に君を傷つけてしまったのだろうと思う。それについて、心から「ごめんなさい」が言えなかったことが、僕の心残りです。
だから、肉体が消滅してしまった、今、手紙を通じて、僕の気持ちを残しておきたいと思ったのです。
ごめんなさい。
君の益々のご発展を祈っております。さようなら。
草々
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吉澤奈津子 様
前略
さきほど、電話で話したばかりなのに、こうして手紙を書くなんて、なんだか不思議な感じです。ただ、僕の肉体が消滅してしまうのにあたって、僕は、この現実の世界に生きた証として、僕の気持ちを言葉として残しておきたいと思ったわけです。
なぜ、僕が消滅したのか、それはなかなか上手に説明することができません。この手の説明は、僕よりもむしろレイコさんの方が得意かもしれません。なつこさんにとって、僕なりレイコさんの説明は、納得しがたい、非論理的な話に聞こえるかもしれません。僕も未だに何がなんだかわかりません。しかし、何かに巻き込まれていること自体は事実です。そして、なつこさんがこの手紙を読んでいるということは、僕の肉体が消滅したことも紛れもない事実なわけです。
その事実を科学的に説明することは、いまの人間の文明力では、無理だということだけはわかっています。技術や科学が進歩すれば、論理的に説明ができるかもしれません。進歩というものは素晴らしいです。思ってもみなかったことができるようになったり、理解できるようになります。例えば、インターネットや携帯電話。10年前、僕たちが高校生だったころ、もしくは中学生だったころ、こんな情報社会がやってくるとは、僕に限って言えば、想像もできませんでした。確かに、21世紀になったら、車が空を飛び、宇宙ステーションで生活をするというような生活にはほど遠いわけですが、もしかすると、21世紀の世紀末には本当にそういうことになるかもしれませんね。
この手紙では、そういうことを述べようとしているわけではないのです。だから、くだらないと思わないで、もう少し読んで欲しいと思います。
僕は、なつこさんのことが好きでした。否、僕はなつこさんのことが好きです。電話の最後で会ったときに話したいという重要なこととは、この気持ちを伝えたかったということです。僕は、なつこさんと一緒に、時には笑い、時には泣き、喜びや悲しみを分かち合いたかったです。でも、それはもう叶わぬことになってしまって、それが僕の唯一の心残りです。
もっと、僕はなつこさんと時間を共有したかった。もし、メビウスの輪のように、再び、あなたに出会えることを心から願っております。
あなたには、素晴らしい才能があると思います。自信を持って、その才能を十分に発揮して、一人でも多くの方に幸せを感じさせてあげてください。 さようなら
草々
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竹下礼子 様
前略
ごめんなさい。いろいろと考えた挙句、僕はやはりレイコさんを巻き込むべきではないと思い、一人で旅立ちます。僕はあなたに出会えて本当に良かった。そして、仕事が一緒にできて本当に嬉しかった。いつも一緒にいてくれて本当に楽しかった。
今回、身の回りで生じたさまざまな非科学的な出来事は、僕の欠落が招いた結果だという、蝋燭屋の店主の指摘が正しいとするならば、全て僕の責任だ。
僕が起こしてしまったことには、僕は責任を負わなければいけないし、その責任から逃げたり、人に押し付けたりすることはできない。世の中には、もしかすると世の中の大半はそうなのかもしれないけれど、責任を回避する人が多いような気がする。僕は、自分の責任には正直に真正面から引き受けることで、つまり僕の責任を他人に転嫁させたり、分担してしまったりしないで、きちんと責任を負うことだけはしたいと思う。いや、しなければいけないんだ。そうしないと、僕は、本当に生きている価値のない人間になってしまうんだと思うんだ。
正直言うと、僕は怖い。今も強がっているけど、怖い。もしかすると、僕の肉体が消滅してしまうかもしれない、もうレイコさんに会うことができないかもしれない、日常の生活に戻れないかもしれないことに対して、恐怖と不安と、そして心細さを感じる。
でも、僕は行かなければいけないんだ。もし行かなくて済むのであれば、僕は絶対に行かない。しかし、行かなければいけないし、もう一度、レイコさんに会うために、そして日常を取り戻すために、僕は「えいっ」と、気持ちを必要以上に押し上げて、いま、旅立とうとしているんだ。
僕は消滅したくない。もっと、レイコさんと一緒にいたい。できることならば、レイコさんにもこの旅に付いてきて欲しい。でも、それは、単なる甘えでしかないんだと思う。
君の事をいつも頼りにしていた。君の存在をいつも力強いものと感じていた。きっと、君がいなければ、僕は僕として存在し得ないだろう。
ありがとう。また会える日が来るまで、さようなら。
追伸:会社のことだけど、僕が死亡したり、消滅してしまったら、君に全てを任せます。清算するのもありだし、継続することもありです。君の能力であれば、問題なく、継続できると思います。
草々
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そこまで考えて、ある結論が僕の中に出た。それは、やはりレイコさんを巻き込むべきではないということだ。これは僕自身の問題であって、レイコさんはむしろ巻き込まれるべきではない。僕の責任は僕自身しか負うことはできないのだ。
そこで、僕は、一人で旅立つために、朝になる前にこっそりと旅に出ることにした。もしかすると、二度と、この空間には戻れないかもしれない。最後にするべきこととして、僕は手紙を残すことにした。レイコさんへとなつこさんへの手紙だ。
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そんなことを考えると、麻衣のことを、ふと思い出した。麻衣は、元気にしているだろうか。僕は彼女を裏切り、傷つけた。そして、彼女は、今、この瞬間、別の場所で、異なる時間の中で、この現実の世界の日常に存在する。彼女は、その僕と同じ空間の別な場所で、自分なりの幸せを手に入れようとしている。それが、彼女にはできる。
そして、石和裕美のことを思った。僕は彼女のことも傷つけた。彼女は、既に、この現実の世界には存在せず、意識的にも肉体的にも消滅してしまった。もう僕と同じ空間には存在しない。だから、彼女は麻衣とは違って、もう自分なりの幸せを手にすることはできないのだ。
そう考えていると、僕は、自分の過去の罪の重さについて、とてつもなく重たく、そして深いものだと感じた。僕は、自分では気が付かないうちに、人を傷つけている。否、僕は僕が関わってきた女性たちに対して、傷つけることしかしてきていないじゃないか。そのことが頭の中で明瞭に認識できた。僕は、なぜ、こんなにも人を傷つけるのであろうか。もちろん、人間関係の中で、知らない間に相手を傷つけてしまうことはあるだろう。しかし、僕は、そんな常識的なレベルではなく、非常に人を傷つけているのではないだろうか。それが、僕の欠落がもたらした、もしくは表出化した結果なのであろうか。その欠落の原因はどこにあるのか。その原因を見つけることこそが、僕の心の忘れ物を持ち帰ることであり、埋めることなのではないかと思った。自分の原罪のありかを僕は、これから探しに行く。
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僕は、なつこさんとの電話を終えてから、頭の中を空白にして、ソファーに寝転がった。僕の頭と心の中に、なつこさんの声がいつまでも響き、残った。その声が響くたびに、僕はなつこさんを愛しく思い、恋しく思った。そして、これが永遠の別れになるかもしれないと思ったとき、少し涙がこぼれた。僕は、消滅したくない。行かなければ行けないことは十分にわかっているのだけれども、もし行かなくて済むのであれば、行きたくない。そして、今から、すぐになつこさんに会いに行きたいと思った。しかし、行かなければ行けない旅なのである。僕には、「行かない」という選択肢はなかった。
僕が僕であるための、確かに嫌なことも辛いこともあるけれども、平凡な幸福を得ることができるこの日常の空間を失いたくない。夢の世界では、そういう負荷はないのだとしても、不死を得ることができるとしても、僕はこの日常の空間で、肉体的にも意識的にも死を迎えるまで、そして、死によって、完全に肉体も意識も消滅するにしても、それが地球の歴史からすれば、わずか一瞬の時間であったとしても、この現実の世界で生きていたかった。願わくば、なつこさんやレイコさんに囲まれながら。
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なつこさんは、「つまり、全て自分で背負い込まず、自分のスタッフを信じろということね」と言った。僕は、「うん。確かに山口さんの穴は大きいかもしれない。でも、その穴は、なつこさんのお店のスタッフが力を合わせれば絶対にフォローできる」と言った。
「ありがとう。電話して、あなたとお話ができて良かったわ」と、少し元気が回復した声で言った。僕は、「どういたしまして」と言った。すると、彼女は、「あなたに会いたいわ」と言う。僕は、「僕も会いたい。なつこさんに会いたい。僕もなつこさんに話したい重要なことがあるんだ」と言った。彼女は、「私に話したい重要なこと?」と聞いた。僕は「電話で言うべきことではないから、今度、会ったときに話すよ。僕は仕事で旅に出る。旅に出ると言っても、長い期間ではなく、出張的な短さだけどね。場合によっては、2・3日の間は、連絡が付かないかもしれないけど、東京に戻ってきたら、また連絡する」と言った。
なつこさんは、「わかったわ。旅行、お気をつけて。あなたが出張から戻ってきたら、予定を合わせましょう。ご連絡をお待ちしているわ」と言った。僕は、「きっと連絡する」と言った。なつこさんは、「今日はありがとう。おかげで、元気になれたわ。それでは、また」と言った。僕は、「電話をくれて嬉しいよ。さようなら」と電話を切った。
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「嘘を付いても仕方がないよ。本当だよ。ねえ、なつこさん。僕は思うんだ。そういうときこそ、焦っちゃいけないって。全てをやろうとして、がんばりすぎちゃいけないって。そういうときこそ、自分ができる仕事を確実にやる。完璧な人間なんていないんだ。だから、人は支え合いながら生きている。社会というのは、人間と人間の関係性であり、その関係性とは支え合い、信頼なんだと思うよ」と、僕は言った。
なつこさんは、「あなたの言うこと、なんとなくわかるわ」と言った。
僕は、「今こそ、君のお店の持てる資源を最大活用するべきなんだと思う。僕は、あの店には素晴らしい可能性があると思っている。そして、その可能性を実現し得る資源もある。ねえ、なつこさん、君の役割は、自分で楽器を弾くことではない。オーケストラで言えば、指揮者なんだ。君は、最高の指揮者なんだ。今こそ、慌てず、ゆっくりと、自信を持って、指揮棒を振るべきだと思う」と言った。
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なつこさんは、「ニュースで知っていると思うけど、うちの副支配人の山口が亡くなったの」と、言った。僕は「知っているよ。お気の毒に」と答えた。彼女は、「お店の実務、つまり帳簿のこととか仕入れの細かいこと、そういういろいろなことを彼にお願いしていたから、彼が突然いなくなって、お店が立ち行かなくなっている」と、少し疲れた声で言った。僕は、「わかるよ。山口さんが、お店の創造的な仕事はなつこさんで、事務的な仕事は山口さんという役割分担になっていると言っていた。僕は、それはとても絶妙で素晴らしい役割分担だと思っていた。君は、君の才能を発揮して、創造的な仕事に専念するべきだと思っていたからね」と、僕は答えた。
「どうしたらいいのか、わからないの」と、彼女はつぶやいた。僕は、「うん」と答えた。彼女は、「不安なの。このお店を続けていけるのか、私はその負担に耐えられるのか」と言う。僕は、「わかるよ。その不安な気持ち。僕も何度かそういう気持ちになって、逃げ出したくなっちゃうこともある」と答えた。彼女は、「あなたでも、そういうときがあるの?」と小さな声で聞いた。僕は、「もちろん。不安じゃないときの方が少ないかもしれない」と言った。彼女は、「本当に?」と聞いた。
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枝豆をつまみながら、ビールを飲み、野球を見る。これもひとつの夏の醍醐味であり、贅沢であろう。しかし、僕は、一人で、これまで起きた不思議な出来事を静かに考えていた。
スパゲッティとピザを食べ終わり、ウイスキーのボトルも大分空いたとき、電話が鳴った。電話を出てみると、相手はなつこさんだった。
「突然、ごめんなさいね」となつこさんは言った。
「いいよ」と、僕は言った。
「いま、大丈夫かしら?」と、なつこさんは尋ねてきたので、僕は「キャベツとベーコンの緊張感溢れるスパゲッティと解凍ピザをつまみながら、ビールとワインを空けて、ウイスキーを飲みながら、日常空間の素晴らしさを堪能していたところだよ」と答えた。
「つまり、夕食中だったということね。ごめんなさい」と、なつこさんは言った。
「ちょうど、一人だったから、話し相手が欲しかった」と、僕は答えた。
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料理ができると、炭水化物に偏っている気がした。しかし、今から買い物に行くのも面倒であるし、せっかくの残り物の整理なので、新しく調達した食材が余ったら、元も子もないので、諦めることにした。僕は、まずビールを飲んだ。このビールは輸入物のベルギービールだ。小瓶を開け、僕は丁寧にビールグラスにビールを注いだ。僕は、あまりビールが得意ではない。基本的に炭酸水が飲めず、子どものころからコーラなども飲めなかった。ビールにいたっては、炭酸に加えて、その苦々しさがなんとも言えず、不得意であった。しかし、このベルギービールだけは、違っていて、ビールが得意ではない僕もすんなりと馴染むことができたのであった。
僕は、ビールを飲み終えると、僕は、先日、レイコさんと開けたワイン-1955年物のシャルム・シャンベルタン!-の残りを飲み干した。そう、石和裕美が死んだ日に、僕とレイコさんが彼女を弔いながら開けたワインだ。ほとんどは、二人で飲んでしまっていたのだが、若干、ワイングラスに一杯程度残っていたので、それを僕は一気に飲んでしまった。
そして、ピザをつまみ、スパゲッティを食べながら、CDにはシューベルトの「アヴェ・マリア」をかけながら、僕はボーモアの15年物をストレートで飲むことにした。窓を開け、外を通る車の音も心地よく聞こえてきた。夏の生暖かい風が吹き込んできて、僕がいつもと変わらない、日常的な空間の中に、確かに存在するのだということを実感した。
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冷蔵庫には、キャベツとベーコンが入っていた。また、開封したままになっていたスパゲッティの麺が一束残っていたので、キャベツとベーコンを炒め、スパゲッティを茹で、キャベツとベーコンのスパゲッティを作ることにした。また、冷蔵庫には冷凍用ピザが入っており、こちらも解凍することにした。もしかすると、これが最後の晩餐になるかもしれない。しかし、最後の晩餐というには、残り物の整理になってしまって、少し寂しい感じがした。料理を作りながら、もしかすると、僕はなつこさんのお店に食事に行き、最後になつこさんに会いに行った方が良かったかもしれない、と思った。いや、むしろ、そうするべきだったと後悔した。
しかし、よくよく考えてみると、なつこさんは、山口さんが死んで、とっても忙しいだろうし、もし、なつこさんに会えば、僕自身も旅立ちの決心が揺らぐかもしれない。それならば、僕は、こうして冷蔵庫の残り物の整理をしていた方が良いのだろうと思った。
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すると、店主は、黄色い蝋燭を二本取り出した。「これが夢の世界への切符だ」と言った。そして、突風が吹き、扉が強い音を発して閉まったかと思うと、黄色い蝋燭を二本を残して、店主は消え、蝋燭屋の風景が失われた。
僕は、「レイコさん、旅立ちは明日の朝にしよう。君も念のため、済ませることは澄ませておいた方がいい」と言った。レイコさんは、「わかりました。それでは、明日の朝、この事務所から旅立ちましょう」と言った。僕は、「そうしよう」と言った。
レイコさんを神谷町の駅まで見送ると、僕は虎ノ門の駅に戻り、銀座線に乗り、表参道で半蔵門線に乗り換えて、自宅に戻った。
僕は、冷蔵庫の中から残りものの野菜を取り出した。もし、このまま何日間も旅に出るのであれば、それはもしかすると二度と戻ってくることができない旅なのかもしれないが、冷蔵庫の中身を整理しておく必要があった。
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「しかし、夢の世界は実に怖いところだ。お前さんを現実の世界に戻さないように、さまざまな妨害をしてくるだろう。それに負けないことが重要だ」と店主は言った。僕は、「もし負けてしまったら?」と尋ねた。すると、店主は、「先ほども言ったように、肉体は消滅し、意識だけが永遠に存在するだけだ。すなわち不死を得られる」と言った。僕は、「つまり、現実の世界では死ぬということですね」と尋ねた。店主は、「そうだ」と答えた。
僕は、口を閉ざし、深刻な顔をした。そして、両手を頭に置き、少し上を見上げた。
「まだ時間は少しだけ余裕がある。何があるかわからない。もし、この現実の世界に、まだ思い残すことがあるのであれば、それは済ませておいた方がいいだろう。肉体は消滅しても、永遠に意識は生き残ることになる。つまり、思い残すことがあれば、それも一生果たされないままになる」と、店主は言った。
僕は、「わかりました。今夜のうちに全てを片付けておきます」と言った。すると、レイコさんは、「私も一緒に行くわ」と言った。僕は驚き、店主も驚いた。レイコさんは、「物理的だか技術的だかわからないけど、私が付いていくということはできないの?おじいさん?」と尋ねた。すると、店主は、「不可能ではない。しかし、夢の世界に行くというのは、並大抵のことではない。わざわざ危険を冒す必要もない」と言った。僕も、「これは僕自身の問題なんだ。君を巻き込むわけにはいかない」と言った。すると、レイコさんは、「社長は弱い人間だから、心配なんですよ。だから、私がアシスタントとして、ちゃんと付いていかないと」と言った。店主は、「素晴らしいお嬢さんだな。確かに、これだけ理知的で優秀な助手がいた方が旅は楽かもしれない」と言った。僕は、「後悔しないね」と尋ねた。「もし君の肉体が消滅することになるかもしれないとしても」と続けて言った。すると、レイコさんは、「誰かに強いられるのではなく、私自身の選択ですから、何があったとしても、それは自分の責任ですし、後悔なんてしません」と言った。僕は、「ありがとう」と言った。
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僕は、「オセロゲームのようなもの?」と尋ねた。そうすると、店主は、「まあ、それに近い」と答える。「つまり、夢の世界が現実の世界に取って変わろうとしている。つまり、夢の世界と現実の世界の間で、安定的なバランスが保たれていて、秩序が形成されていたわけだが、夢の世界が現実の世界を侵食することによって、そのバランスが崩れて不安定性が生じてきている。その不安定性の中で、ひずみが発生し、つまり、ふたつの世界の緩衝地帯と言ったら良いと思うが、それを、ここに空間的に作り上げることで、かろうじて秩序を保っているわけだ」と店主が説明をした。
僕は、「僕は、その夢の世界に行き、何をすればいいのですか?」と尋ねた。すると、店主は、「簡単なことだ。お前さんの心の中にある忘れ物を見つけ、それを持ち帰り、自分の心に埋めることだ。もう、心の中、つまり夢の世界に行くための穴は掘った。そして、すでに超えるべき壁を越えている。あとは、お前さんの欠落を埋めるためのピースを埋めるだけだ。そうすれば、このふたつの世界は、再び、以前のバランスを取り戻し、安定性が保たれ、それによって秩序が形成される」と答えた。
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店主は、「君はなかなか物分りが良い。街という空間そのものが、不安定性の狭間に出来た自然発生的な秩序なのだよ。だから、街には、人間には目に見えないパワーが眠っていて、人を引き付けたり、引き離したりする」と言った。
レイコさんは、「人が集まるところに街ができ、そこに目印になるような建物ができ、またその目印を目指して人が集まる。では、なぜ、そもそも、そこに人が集まるのか。それは、人間は第6感的なもので、空間のひずみから発生するパワーを感じ取って、導かれるということですか?」と尋ねた。
店主は、「優秀だ。百点満点の回答だよ」と答えた。
僕は、「すると、なぜ、そのひずみが、今、この僕の事務所に発生しているんですかね?」と尋ねた。店主は、「君はあまり出来が良くないようだな」と言う。僕は、少し腹を立てた顔をする。店主は、「夢の世界と現実の世界が、本当は表裏になっているはずなのに、夢の世界が現実の世界を侵食しようとしていて、その世界そのものをひっくり返そうとしているんだ」と言う。
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店主は、「気をつけなければならないよ。夢の世界は不死の世界だ。そして、全ての憎悪、苦痛、不快が存在しない。ただあるのは、欲望とその成就だけだ。その世界では意識は永遠に失われない。夢の世界では永遠の命を得られる。だから、その誘惑に負けてはいけないよ。もし誘惑に負けたならば、その結果として、君の肉体は完全に消滅する」と言った。
僕は、「いま、僕の事務所と蝋燭屋が空間的に一体化している。蝋燭屋にはどういう意味があるんですか」と尋ねた。
店主は、「蝋燭屋は、相対的概念の間のひずみ、つまり不安定性に存在する確立した秩序だ。ここでは欲望と愛が絶え間なく交換される。つまり、欲望と愛の市場だ。新宿という街は、間違いなく、そういう場所だよ。男は性欲や愛を満たすために金銭を提供する。女は金銭を得るために性や愛を提供する。市場的な交換、取引が成立しているんだ。こういう場所にこそ、この不安定性の中の秩序を形成しやすいんだ」
レイコさんは、「街というものそのものが不安定性の中の秩序なのではないのですか?」と尋ねた。
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僕は、「僕自身のため?それにしては、あまりにも犠牲が大きすぎる」と言った。店主は、「早くしなければ、この世界は夢の世界と現実の世界が一体化してしまう。夏は夏であるべきだし、冬は冬であるべきなのに、一体化してしまえば、夏と冬が一緒になってしまう。主客は常に確定して、それが安定的に確立していないといけないんだ。昼と夜の関係みたいに。主客が逆転したら、つまり、お前さんの影が、影が意志を持ったら、お前さんが意志を持たない影になる。この世界は、そうした相対的な存在が安定的になっているからこそ、成立するんだ。それが不安定になったら、この世界の秩序が全て壊れる。だからこそ、お前さんは夢の世界で、もう一度夢の世界をハンドリングして、自分自身のために、あるべき姿に戻さなければいけないんだ。そのひずみの限界が、すぐそこまで迫っている」と言う。
レイコさんは、「あなたは一体誰なの?」と言った。店主は、「私はただの店主だよ」と答えた。気が付くと、僕の事務所は、新宿の蝋燭屋の風景となっていた。僕の事務所にあったはずのパソコン、テーブル、テレビは失われていて、蝋燭が僕たちの周りを囲っていた。つまり、僕の事務所と蝋燭屋が空間的に一体化してしまったのである。
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「概念的にはそうかもしれないわね」と、彼女が言った。
僕は、「その接点というか、世界Aと世界Bを結ぶものが、蝋燭屋であり、あの蝋燭だということかな。つまり、僕は、この世界をあるべき姿にするために、蝋燭を媒体に、エスの世界に旅立たなければいけない」と言った。
彼女は、「おおまかなところで、そういうことだと思うわ」と言った。その瞬間、突然、事務所のドアは開き、突風が吹いた。僕とレイコさんは扉の方を一斉に向いた。そこには、蝋燭屋の店主が立っていた。
「あなたは、蝋燭屋の店主さん」と、僕は言った。彼女は、「あの人がそうなの?」と確かめた。店主は、「それは、この世界のためではなく、お前自身のために必要なんだ」と言った。
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「つまり、僕の中の「無意識」の部分なり、「原我」の部分が、「意識」の部分や「自我」の部分に表出してきているということか」と、僕は言った。
「それがあなたの心理的、内面的側面だけに留まらず、この世界そのものに表出化されている」と、彼女が付け加えた。
「僕はどうしたらいいのかな?」と、尋ねた。
レイコさんは、「それは私には今の段階にはわからないわ。でも、ヒントは蝋燭屋のおじいさんの言葉」と言うと、僕は、「夢の世界であれ、現実の世界であれ、掘り続けるんだ、掘って埋めるんだ。埋めて掘る。その繰り返しを続けていけば、君の運命の針は必ず進む、か」と言った。つまり、僕は「僕は穴を掘り続けて僕自身が世界Bつまりエスにたどり着き、エスとエゴの距離をもう一度、あるべき姿に戻す。つまり、エスをコントロールして、そして掘った穴を埋めて、僕が現実世界に戻ってくるということが必要だということなのかな。それは、物理的ではなく、もっと空間的な概念で、僕のエスに向かうべきだと」
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「でも、世界Bというのは、過去に世界Aで起きたことが表象化されているように思えるのだけど」と、僕が口を挟むと、彼女は、「だから、現時点でセットすると、と言ったじゃないですか。私の仮説は、世界Bは、過去の世界Aにおけるあなたの記憶なり意識によって作られているというものです。しかし、現時点でセットすると、世界Bは世界Aに影響を与えるが、世界Aは世界Bに影響を与えない」と、言った。
「おっしゃる通り」と、僕は納得した。
「つまりですね、いま、二つの双対する世界が存在するわけです。本来であれば、それは相対的もしくは表裏一体的に存在するものなのかもしれませんが、それが、なぜだか、相互に引き寄せられて同一化しようとしている」
「エロスとタナトスみたいに?」と、僕は尋ねた。
「もしくは、フロイト的に言えば、「自我」と「原我」、「意識」と「無意識」」と、彼女は言った。
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「そう信じたいね」と、僕は言った。
「確かに、社長が夢遊病だとしても、社長の家から山口さんの家まで距離があるし、ニュースによれば、鍵が閉まっていて、誰かが入った形跡はないって言ってたじゃないですか。物理的に社長が山口さんを殺した可能性は限りなく、低いと思います。もし、警察に出頭したところで、相手にされないでしょう」と彼女が言うと、僕は頷いた。
「しかし、お話を聞いた限りでは、社長がおっしゃるように、社長の夢と現実世界が社長を接点に結びつき始めているように感じます。ここで、論理的に考えるために、現実世界を世界A、夢の世界を世界Bと表現してみましょう。いいですか。」
「わかった」と僕は同意した。
「社長のお話を聞いていると、世界Bで起こったことが、一方的に世界Aに影響を与えているわけですね。例えば、世界Bでユミさんがどこかに旅立てば、世界Aで石和さんが亡くなる。世界Bで山口さんが刺されれば、世界Aで山口さんが同じように刺される。しかし、今の段階では、時系列を現時点にセットすると、世界Aで起きたことは世界Bには影響を与えていない」
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「何かを突き抜けたんですね」
「そう。そうすると、山口さんは、「君はいよいよ超えることができた」と言って、仰向けに裸のまま倒れた。そこで、僕は目が覚めた」
「その状態で、山口さんは現実世界で発見された」
「そういうことだね」と、僕は答えた。
彼女は少し黙って、頭の中を整理しようとしていた。そして、口元に手を被せて、一生懸命考えていた。
「まず、事実を考えると、もちろん社長が見た夢と現実の世界が何かしらの連関なり影響を与え合う状態になっていたとしても、山口さんを物理的に殺したのは社長ではありませんよね」と、彼女は言った。
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「浮気したんですか?」
「浮気した。でも、その浮気した憧憬が、映像的におかしかった。最初は、僕と丸顔の女の子の憧憬を僕自身の視線で見ていたのだけど」
「浮気相手は丸顔の女の子だったんですね」と言った。
「うん。しかし、だんだん視点が第三者的な視点、つまり、テレビの映像を見ているように客観的にその性交のシーンを捉えるようになった。すると、そこで性交しているのが、丸顔の女の子から大学時代の彼女、そしてなつこさんに循環的に変化し、僕も山口さんと循環的に変化した」
「そこで、山口さんが出てくるんですね」
「そして、僕は山口さんに強い憤りと嫉妬心を感じて、客観的な視線の前を覆っていた水のような鏡を突き抜けて、包丁で山口さんの胸を刺した」
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「ユミさんが、いろいろとあなたの欠落を指摘して、最後に、あなたが白い家の中から出られなくて、ユミさんが男性と海の方に旅立つという話ですね」
「そう。そして、石和裕美が死んだ。君と一緒に彼女を弔った夜、僕は密かにもう一度、ユミに会わなければいけない気がして、あの新宿の蝋燭屋に行こうと思っていた。そして、おとといの夜、僕は再び、蝋燭屋に行った。そのとき、店主は、「とにかく掘るんだ。夢の世界であれ、現実の世界であれ、掘り続けるんだ」、「掘って埋めるんだ。埋めて掘る。その繰り返しを続けていけば、君の運命の針は必ず進む」と言った。そして、青い蝋燭に火を灯し、僕はまた意識を失った」
「それで、また夢を見たんですね」
「うん。次は大学時代の彼女の夢だった。昨日の朝は夢の途中で目が覚めたから、昨夜、もう一度、青い蝋燭に火を灯して、寝た」
「そして、夢の続きを見た」
「そう。引き続き、大学時代の彼女の夢で、しかも、僕が浮気した夢だ」
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「まず、一週間前、石和裕美が亡くなった夜、僕は新宿を歩いていた。新宿を歩いていたのは、とてつもなくやり切れない思いがあってね。つまり、なんというか、僕はなつこさんのことが好きなんだけれども、勇気を持てず、一歩が踏み出せないというか、なつこさんにとっては、それが迷惑なんだろうと思って、そういったことでいろいろと悩んでいたら、心がとても痛くて、ぽっかりと穴が開いている感じで、それをなんとか埋めようと街を歩いていた」
「つまり、心の穴を埋める何かを探していたということですね」
「そう。そうしたら、一本路地に入ったところに怪しげなお店があって、それは蝋燭屋だったわけなんだが、その蝋燭屋に変な初老の男性がいた。彼が言うには、その店に僕が来るのは、あらかじめ決められていたことなんだそうだ。それで、その店主が赤い蝋燭に火を灯した途端、僕は意識を失い、先日、話したユミの夢を見た」
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「うん。確かに、犠牲者がすでに2人ほど出てきている」と、僕は言った。
「一人で悩まないでください。あなたのそばには私がいます。もちろん、恋人としてではなく、部下としてですけど。だから、あなたの全てを引き受けることはできないけど、ほとんどのことは引き受けます。一人で悩まないで、私に話してください。そうしないと、次の犠牲者はあなた自身のような気がするんです。このままだと、あなたがもうすぐ、この世界から消滅してしまうんじゃないかって。だから、話してください」と、レイコさんは言った。
「ありがとう。でも、これは僕の問題で、この負担を君に背負わせるわけにはいかないんだ。でも、これから話すことを聞いて欲しい。そして客観的な感想を述べて欲しい」と、僕は言った。彼女は頷いた。
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レイコさんは、その様子に気が付いて、「社長、顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」と心配そうに尋ねた。僕は、「2つの世界が結びつこうとしている。いや、夢の世界が現実の世界に侵食してきている」と、遠い目をしながら、呆然と呟いた。レイコさんは、「社長、大丈夫ですか?」と、僕の肩を揺すった。
確実に、僕が昨晩見た夢の出来事が現実の世界に連関している。石和裕美のときは、何かしらの関係性があるのではないかと疑うことはあったが、直接的なつながりは見つからなかった。しかし、今回は、直接的に、夢のあとを現実世界が引き継いでいるのだ。
僕は、「レイコさん。もしかすると、君は僕の頭がおかしくなったと思うかもしれないけど、もしかしたら、山口さんを殺したのは僕かもしれない」と言った。レイコさんは驚いた。しかし、驚きながらもたじろぐことはなく、冷静に、「社長、確かに最近、あなたの周りでは、人間の力では説明できないようなことが起きています。石和さんの死、山口さんの死。あまりにも身近な人が亡くなりすぎています。あなたに何があったのですか?」と聞いた。
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ニュースキャスターは、「警察はその娘さんを重要参考人として、話を聞いているとのことです」と言った。僕は、「冗談じゃない」と言った。コメンテーターは、「最近は少年犯罪も深刻化してきていますからね」と答えた。僕は、娘さんを犯人と意図的に決め付けようとしているマスコミに腹が立った。「冗談じゃない」
レイコさんも、そのニュースを見ていて、憤慨していた。
僕は、コメンテーターの話を一字一句復唱してみた。「山口さんは、布団の上に裸でうつ伏せに倒れていた。刺されたのは胸のところ」と言った瞬間、僕は昨夜の夢の映像が急に頭の中に蘇った。僕が夢の中で、山口さんを刺し、その後、山口さんが「君はいよいよ超えることができた」と言って、倒れた状態と同じではないか。
そうすると、僕の夢が現実世界に影響を与えたということなのか。それとも、あれは僕の夢なのではなくて、実際に僕が山口さんを殺したということなのであろうか。僕は、頭の中で何がなんだかわからず、パニックになりそうになった。
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「なぜ、山口さんが死ななければいけないんだ」と、僕は何度も胸の中で呟いた。
「今朝、飲食店勤務の山口武雄さん、38歳が新宿区のアパートで亡くなられているのを、別居している娘さん、小学3年生に発見をされました。山口さんは、胸を刺され死亡しており、部屋には物色された様子はなく、警察は仕事関係のトラブルがあったのではないかと捜査中です」
夕方のニュースは、山口さんのニュースを大きく取り上げていた。ほとんどのニュース番組は、年金問題のニュース、米国の大統領が自転車に乗っていて木にぶつかったというニュース、野球の優勝争い、そして生活の知恵のコーナーと同列に山口さんのニュースを報じた。中には、親切にもコメンテーターが山口さんのニュースを解説していた。
「この事件で疑問が出てくるのは、小学生の娘さんがアパートを訪ねたとき、アパートの部屋の鍵は閉まっていたと供述しているんです。窓も全て閉まっていて、布団の上に山口さんは裸でうつ伏せに倒れていたそうなんです。これはかなり手の込んだ密室殺人です」
僕は、ニュース番組はワイドショーのように騒ぎ立てる必要はなく、ただ淡々と事実を報じればいいと思った。
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事務所に到着すると、レイコさんが一生懸命にエクセルのシートと格闘をしていた。僕は、「レイコさん、おはよう」と言うと、レイコさんは、僕を見ることなく、パソコン画面に目線を固定したまま、「おはようございます」と言った。
12時30分過ぎに、僕とレイコさんは昼食を食べに、近くの食堂に行った。食堂では、NHKが流されており、朝のTV連続小説の再放送が終わった後、13時のニュースが始まった。
「今朝、新宿区のアパートで男性が刺殺体で発見されました。被害者の名前は、山口武雄さん、38歳、飲食店勤務。離婚して別居中の娘さんが遊びに来たところ発見して、警察に通報。警察では他殺の可能性で捜査を進めております」
僕は、はしで挟んで口に運んでいた豆の煮物を、口を開けたまま落としてしまった。レイコさんは、「山口さんって、なつこさんのお店の副支配人の山口さん?」と呆然と呟いた。僕は、「その山口さんのようだね」と呟いた。
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麻衣は、「あなた自身とあなたの影を結びつける人、あなたの意識と無意識を結びつける人、必ず、あなたの前に現れるわ。その人を絶対に手放してはだめよ。どういう形であなたと関係するのかわからないけど、それが恋人なのか、それとも友人なのか、わからないけど、あなたが現実の世界から風船のように離れていくときに、必ず、その風船の紐を持って、現実の世界に引き止めてくれる人がいるから。ひとつだけわかっていることは、それは私ではなかったということ」と言った。
麻衣と僕はそれから度々、何度かの断絶の期間はありながらも、手紙やメールの交換を続けている。彼女は留学先で順調のようであった。僕は順調とは言えないけど、麻衣から手紙やメールが来るたびに、僕は嬉しかった。3ヶ月前に来た手紙の様子だと麻衣は、まだ日本に帰国する予定はないようであった。
僕は、二度寝をしてしまい、起きたのは11時前だった。僕はシャワーを浴びて、アップルジュースを飲んで、家を出た。この時間だと事務所に着く頃はお昼の時間なので、空腹ではあったが、どこにも寄らず、事務所に向かった。
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麻衣は、「ありがとう。あなたのことは忘れないわ。日本に帰ってくるときは、必ず連絡するから。そのとき、私もあなたもまだ結婚した方がいいと思ったら、そのときは結婚しましょう。でも、約束をすることであなたを縛りたくないから、約束はしないでおくわね」と言った。
僕は、「わかった」と答えた。
すると麻衣は、「前にも言ったけど、あなたにはあなたをお守りしてくれる人がいつも側にいなければだめだと思う。それは恋人という形ではなくても良いかもしれないけど。あなたのことをいつも気にしてくれて、あなたを励ましてくれて、あなたを叱ってくれる。そして、あなたと一緒に喜び、悲しんでくれる人が必要なの。あなたは弱い人間だわ。一人では生きていけない。だから、あなたにはあなたを常に支えてくれる人が必要なのよ」と言った。
僕は、「ありがとう」と短く礼を言った。
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麻衣は、「私の可能性を試してみたいの。私はあなたのモノではない。あなたには申し訳ないけど、自分の道を進みたいのよ」と言った。僕は、「僕が浮気したから?」と聞いた。麻衣は、「それが直接的な理由ではないわ。その前からずっとよ。ずっと考えていて、あなたとの生活と自分の夢の間で常に揺れ動いていた。でも、一度は、あなたとの生活を選択したのよ。でも、どうしても諦め切れなくて」と言った。
僕は、「わかった」と答えた。「もしかすると、僕はまた君を傷つけるかもしれない」と言った。
麻衣は、「そうね」と言った。僕は、「麻衣は僕のモノではないし、麻衣を止める権利は僕にはない。だから、僕ができることは、笑顔で君を送り出すことだ」と言った。
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「君はいよいよ超えることができた」と声が聞こえた瞬間、僕は何か殴られたような衝撃に驚いて、目が覚めた。僕は、「ひどい夢だ」と、汗を拭き、サイドテーブルに置いてあるお茶のペットボトルに口を付け、お茶を飲んだ。
サイドテーブルに置いておいた青い蝋燭は、全ての蝋が溶けており、蝋燭を立てた器だけが寂しく残っていた。僕は暫く呆然としていた。夢の中身をゆっくりと振り返った。そして、もう一度、「ひどい夢だ」と呟いた。そして、事実がどうであったかを頭の中で一生懸命に思い出そうとした。
夢の中身は、山口さんが登場してくるまでは、確実に事実のフィードバックであった。僕はあの夜、丸顔の女の子と寝た。それから度々、丸顔の女の子と寝た。麻衣は、徐々に僕の変化に気が付いており、あの夜から3ヶ月ほど経った夏の夜に「あなた浮気しているでしょう」と指摘した。僕は、包み隠さず事情を説明した。麻衣は、「そんな話、聞きたくないわ。だから、言ったでしょう、あなたは情に弱いくせに直情的だから気を付けなさいって」と怒った。僕は素直に謝った。すると、彼女は、「あなたには主体性がなさ過ぎる。私はその犠牲にはなりたくない」と呆れながら言った。
麻衣は、僕を半分許し、半分許さないでいた。そのうち、僕と麻衣は、違和感を有しながらも付き合い続けた。しかし、麻衣は僕には内緒で留学準備をしていて、大学の卒業と同時に別れは突然にやってきた。
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山口さんも麻衣も何も答えず、麻衣が山口さんの上に乗り、そして、麻衣は山口さんを自分の中に誘導した。僕は、「なぜなんだ」と大きな声で言った。二人は僕の声に気が付いていないようだった。再び、月の光が差し込んだとき、麻衣は麻衣ではなくなり、なつこさんになった。僕は、「なつこさん?」と目が点になって、性交をしている女性を見つめた。僕はプロジェクターから映し出された粗い映像を見るように、僕は呆然と立ち尽くしていた。女性は、なつこさん、麻衣、そして丸顔の女の子と入れ替わり、男性は山口さんと僕が入れ替わった。僕は、頭が混乱し、ここで何が起きているのかわからなかった。僕は確かに丸顔の女の子とセックスをしていた。そして、なつこさんと山口さんの存在を、僕はこの時代では全く認識していない。
山口さんに、麻衣が犯され、なつこさんが犯され、僕がセックスをしていたはずの丸顔の女の子も犯されている。僕は、山口さんに腹が立つとともに、強烈な嫉妬心を感じた。僕は山口さんを心から憎み、許せなかった。そして、僕は丸顔の女の子の部屋のキッチンから包丁を取り出し、今まさに性交をしている山口さんに向かって、透明な水のような鏡を越えて、山口さんの腹を包丁で刺した。そして、刺した包丁を横に回しえぐった。不思議なことに血は飛び出さず、映画のシーンのようにスローに山口さんは苦しんだ。
そのとき女性は、消滅していて、丸顔の女の子の部屋には、僕と山口さんの二人だけが存在していた。
山口さんは、「君はいよいよ超えることができた」と呟き、ベッドの上に倒れた。
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彼女の着ている物を全て剥がし、僕も全て脱いで、僕は彼女の身体をゆっくりと愛撫した。彼女は、「ねえ。私もしてあげる」と言い、僕と彼女は上下を入れ替わり、彼女は、僕の下半身を口に含んだ。
その瞬間、彼女は丸顔の女の子ではなく、麻衣になった。僕は驚き、その彼女をもう一度眺めた。しかし、いつのまにか、僕の視点は僕の目からではなく、二人の男女が交わっているのを眺める第3者の視点となっていた。そうすると、今、僕の前で交わっている男女は誰なんだろうか。確かに、僕は丸顔の女の子と性交していたはずである。しかし、女の子は麻衣になり、僕であったはずの男は僕でなくなっている。暗くて、男の顔がなかなかはっきりしない。僕が性交をしている二人に近づいても、二人は気が付かない。完全に、今、僕が立っている空間と二人が性交している空間とは別空間のようで、僕は鏡を通じて、その空間を見ているようであった。雲の切れ間から月の光が偶然に部屋に入ってきた。その男は僕が知っている男だった。僕の代わりに性交している男性、それは、なつこさんの店の副支配人である山口さんだった。
僕は、「山口さん?」と言った。当然、僕は、山口さんと大学時代に面識はなく、現実のなつこさんの店で初めて会ったのだ。僕は、「なぜ、山口さんがここにいるの?」と聞いた。
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「それで、川に飛び込んでしまおうと思ったんだけど、なかなか飛び込めなくて、ただ呆然と川の近くでずっと座り込んでいたの」と彼女が言った。
「正しい選択だ。今、君は死ぬ必要はないし、なにしろ、そんなことをしたらもったいない。あと、川に飛び込んで死んだら、君のかわいい顔も美しい身体も損なわれてしまう。それは世界の大損失だよ」と言った。
「そうしたら、あなたの顔が思い浮かんで、部屋に戻ってきて、ずっと電話しようか迷ったんだけど、もう気持ちを止められなくて」
「うれしいよ」と、僕は言った。
「本当に今から来てくれるの?」と心細い声で彼女は言った。
「行くよ。必ず行くから、そのまま僕のことだけを考えて、待っていて欲しい」と僕は言った。
彼女は、「待ってる」と言った。
僕は、電話を切ってすぐに自転車で丸顔の彼女の家に向かった。丸顔の彼女のアパートに着いて、ドアを開けてもらうと、彼女は飛びつくように、僕に抱きついた。僕は、それを受け止め、強く抱きしめた。そのまま深く激しいキスをして、口唇を離すと、彼女は「ありがとう」と言った。僕は顔に笑みを浮かべた。そのまま、僕たちはベッドに移動して、彼女の上に覆いかぶさるように、僕は彼女の口唇に僕の口唇を重ねた。重ね続けたまま、僕はシャツとチノパンを脱ぎ、そして彼女のシャツを脱がした。そうすると、彼女の黄色いブラジャーが目の前に現れた。僕は、一旦口唇を離して「今日のブラジャーのホックは前?後ろ?」と聞いた。彼女は、くすっと笑って、「今日は後ろよ」と言った。僕は口唇を彼女の口唇の上に戻して、片手を彼女の背中に回し、ブラジャーのホックを外した。そしてもう片方の手で、彼女の髪と耳を撫でた。
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僕は、「麻衣。おやすみって言っただろう。どうしたんだい?」と電話に出た。すると、電話の向こうは無言だった。僕は、直感的に電話の相手は丸顔の女の子だと察した。電話の向こうは、泣いているようだった。僕は、「泣き終わるまで待っているから、ゆっくりと泣いていいよ」と言った。電話の相手は、鼻をすすりながら、泣いていた。僕は黙ったまま、その鳴き声と鼻をすする音を、目を閉じながら聞いていた。
10分ぐらい経過して、ようやく泣き音が止んだ。
僕は、「どうしたんだい?」と聞いた。
電話の相手は、「今から会える?」と、泣き声を交えながら聞いた。
「いいよ」と、僕は言った。
電話の相手は、やはり丸顔の女の子だった。彼女は、「今日の夜に彼の家にもう一度行ったの。もう一度、やり直そうと思って。でも、彼は冷たく、「もう愛していない。会いたくもない」と言って、家の中にも入れてくれなかったの。そして、ドアを強く閉められて。私は混乱して、必死にドアを叩いて泣きながら彼の名前を読んだの。5分ぐらい経って、ドアが開いたの。そうしたら、彼の女に塩を撒かれて、「死ね」って言われたの。とても悔しくて、とても悲しくて」
「わかるよ」と僕は言った。
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僕は、「それは光栄だ」と言うと、彼女は、「茶化さないで。あなたには、常にあなたのことを見ていて、あなたを守るというか、ブレーキをかける人が必要だと思うのよ。そして客観的にあなたにアドバイスできる人。あなたは嫌かもしれないけど、あなたにはそういう人が必要なのよ」と言った。
僕は、「君がいるから安心だ」と言った。彼女は、「もし私がいなくなったら、どうするのよ」と言う。僕は、「そんなことないよ。君は僕よりもきっと、ずっと長生きするし、僕とずっと一緒にいる」と言った。彼女はため息を交えながら、「自分勝手な人ね」と言った。
僕は、彼女との電話を終えた後、シャワーを浴びて、大学に出掛けた。夜、自宅に戻ると、麻衣に電話をして、週末のデートの相談をした。麻衣はとても嬉しそうな声で、映画が見たいとか、何が食べたいとか言った。僕は、頭の中で、丸顔の女の子を時々思い出しながら、麻衣と話した。麻衣との電話を終え、ベッドに入り、電気を消した。そして、目を閉じていると、PHSのバイブレーションが震えた。
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僕は、自分の家に戻り、PHSから麻衣のPHSに電話した。麻衣は少し怒った声で、「心配していたんだから」と言った。僕は「ごめん。昨日、帰ってきたら、もう0時を過ぎていたんだ」と言った。彼女は、「珍しいわね。あなたが気を遣うなんて」と言った。僕は、「そうかな」と聞いた。彼女は、「あなたはもっと直情的だと思っていたわ」と言った。僕は、「自分では理性的だと思っているけど」と言った。彼女は、「たぶん、そう思っているのはあなただけよ」と言う。僕は「まいったな」と言った。すると、彼女は、「あと、」と彼女は何かを言い出しかけた。僕は、「どうしたの?」と聞いた。
彼女は、「あと、あなたは、情に流されやすいと思うの。前にも言ったけど、主体性がないというか自分では自分の気持ちをあまり表現しないくせに、人の気持ちとか情には敏感なのよ。だから、自分の気持ちよりも相手の気持ちとか情に負けてしまうの。そのへんは、あなたの良いところでもあるんだけど、気をつけてね」と言った。僕は、ドキッとした。昨夜の出来事を麻衣は全て知っているように、僕に忠告をしたのだった。彼女は、「情に弱いくせに、直情的だから、気をつけないと、自分の身を滅ぼすことになるかもしれないわね」と言った。僕は、「なんだか、奥さんに叱られているような感じだね」と言った。彼女は、「もう、あなた一人の問題じゃないのよ。あなたの問題は私の問題でもあるの」と言った。
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丸顔の彼女が顔を上げると、そのまま口唇を僕の口唇に重ねた。そして、ただ重ねるだけではなく、彼女はもっと激しく深いキスをしてきた。僕は彼女を抱きしめ、彼女を受け止めた。彼女は僕に覆いかぶさり、僕はキスを続けながら、下から彼女のブラウスのボタンをひとつずつ外していった。彼女のブラウスを剥ぎ取ると、白いブラジャーが見えた。そのブラジャーの下には豊満な乳房が隠されていた。僕は、背中に手を回し、ブラジャーのホックを探したが、見つからなかった。彼女は、口唇を一旦離して、「前よ」と言って、僕の手を胸に誘導した。再び、彼女は口唇を僕の口唇に重ね、僕は、片手でブラジャーのフロントホックを外した。そして、僕と彼女は半回転し、僕が上になった。僕は、自分のシャツを脱ぎ、彼女のスカートのチャックを下げた。
お互いに求め合い、そして優しく強く、柔らかく、激しく、僕たちは欲望のまま、交わったのであった。
僕たちは、その夜、三度、性交した。そして、僕は彼女のベッドの上で、朝を迎えた。僕は、三度目のセックスを終えた後、ぐっすりと眠ってしまった。僕は8時頃、目が覚め、僕の腕の中で眠っている彼女を起こした。
彼女は、タンスの中から下着とジャージ、Tシャツを取り出して着た。僕は、床に落ちている自分の下着とシャツとチノパンを拾って着た。
丸顔の彼女は、「また会ってくれる?」と聞いた。僕は、「いいよ」と言った。丸顔の彼女は、「いいの?」と、聞いた。僕は、「君が寂しくて、夜、眠れないときに連絡をしてくるといい」と言い、僕のPHSの番号を教えた。丸顔の彼女は、「でも彼女がいるんでしょ?」と聞いた。僕は、「それは気にしなくていい」と言った。丸顔の彼女は、「嬉しいわ」と喜んだ。
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沈黙を破るかのように僕は、「彼氏と別れたの?」と聞いた。丸顔の彼女は、「はい。一週間前に」と答えた。僕は、「地元の人?」と聞く。丸顔の彼女は、「はい。高校時代の同級生で、彼の方が一年早く東京に来ていたの」と答える。僕は「遠距離恋愛?」とさらに聞く。丸顔の彼女は、「私はそのつもりでした。でも、東京にも彼女が出来ていて」と言った。僕は「つまり、二股だったってこと?」と聞く。丸顔の彼女は、「そう。私が東京に出てきて、彼の家にいたら、東京の彼女がいて」と言った。僕は、「それはひどいね」と言った。
丸顔の彼女は、突然泣き始めた。僕は、丸顔の彼女の頭に片方の手をかけて、僕の肩に寄せた。丸顔の彼女は、抵抗することなく、僕の誘導に身を任せた。
丸顔の彼女は、「東京の彼女は、あなたはもう愛されていない、地元に帰ったときの都合のいい性欲の対象だけなのよ、って言って、彼も私に、出て行け、って言ったの」と言う。僕は、「ひどいね」と言った。丸顔の彼女は、「もう私何がなんだかわからなくて。死にたいとも思って。私はどうしたらいいのかわからない」と言った。僕は、「もう忘れた方がいい。人間は、忘れることができるんだ。嫌なことを忘れることができる。そして、新しい恋愛を探すんだよ」と言った。丸顔の彼女は、「忘れさせて」と言った。僕は黙った。丸顔の彼女は、「お願い」と泣きながら言った。僕は、「そんな刹那的にセックスしても悔いが残るし、何も解決しないよ」と言った。丸顔の彼女は、「あなたに抱かれたいの。今日のコンパで最初に会ったときから、あなたに抱かれたいと、強く思ったの」と言った。僕は黙っていた。僕は平静を装いながら、心の中では大きく揺れていた。欲望と理性の間で、気持ちが行ったり来たりした。
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僕は、黙っていた。丸顔の彼女も黙っていた。暫く沈黙が続き、お湯を沸かしているやかんがお湯が沸いた合図の音を出していた。
僕は、「お湯が沸いたよ」と言った。丸顔の彼女は、「関係ないわ」と言った。関係は大ありだ。それが原因になって火事になったら大変だし、そんなことになったら、僕は死んでしまうかもしれない。そうしたら、確実に麻衣からは、疑念を持たれてしまう。その名誉を挽回する機会は永遠に得られない。だからこそ、今、するべきことは、やかんの火を止めることなのだ。
僕は、「とりあえず、火を止めてほしいな。そうしないと生きた心地がしない」と言った。彼女は、「変な人ね」と言って、僕から離れてキッチンに戻った。僕の胸の中は興奮と緊張とが一杯で、頭の中は混乱をしていた。そして、下半身はもちろん勃起していた。僕はそれを静めるために必死に、新聞の見出しと記事の文字を追い、呪文のように繰り返した。
丸顔の彼女は、紅茶を入れ、その紅茶をテーブルに置き、僕の横に座った。僕と丸顔の彼女は沈黙したまま、僕は新聞記事を、丸顔の彼女は俯いていた。
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僕と丸顔の彼女は、駅で電車を降りて、僕の後ろに丸顔の彼女を乗っけて、ゆっくりと自転車を走らせた。丸顔の彼女は、「風が気持ちいいわ」と言った。僕は「酔い覚めにはちょうどいいかもね」と言った。丸顔の彼女の案内に従って、丸顔の彼女のアパートの前に到着した。僕は「もうここで大丈夫だね」と聞いた。丸顔の彼女は、黙って俯いていた。そして、「もし宜しければ、少しお茶でも飲んで行きませんか?」と言った。僕は、「君は一人暮らしだろう?」と尋ねた。彼女は、「だめですか?」と聞いた。僕は、「一人暮らしの女性の部屋には上がれないよ。あと、帰ったら、彼女に電話しなくちゃいけないし」と困った感じで答えた。丸顔の彼女は、「もう少し誰かに一緒にいて欲しいんです」と言った。僕は、「何かあったの?」と聞いた。彼女は、「私、寂しいんです。彼氏とも別れて、夜、布団に入っても、孤独感で気持ちが一杯になって、あまり眠れない」と言った。僕は、「わかるよ」と言った。丸顔の彼女は、「少しでいいんです。あと少しだけ側にいてください」と言った。僕は、「わかった」と答えた。
丸顔の彼女の部屋は、質素できちんと整理整頓がなされていた。どことなく味気がなく殺風景と言えば殺風景なのではあるが、必要最低限のものは揃っているという感じであった。ワンルームの部屋で、奥にはベッドがあり、その手前に小さな丸いテーブル置いてあった。座布団の上に僕が座ると、彼女は荷物を脇に置き、キッチンでお湯を沸かした。僕は目のやり場に少し戸惑いながら、丸いテーブルの上に置いてある新聞の文字を追った。
一生懸命に新聞の見出しの文字を追っていると、急に、肩と背中に重さを感じた。そして、シャンプーの匂いと香水の匂いがした。丸顔の彼女は、後ろから抱きかかってきたのであった。そして、丸顔の彼女の顔を僕の肩にうずめたのである。
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僕は、このまま麻衣と結婚し、日常的な生活の中で、麻衣と子どもに囲まれ、日常的な幸福を喜びに生きていくのだろう、と思い始めていた大学3年生の春、僕の前に麻衣の他に気になる女性が現れた。その女性とは、サークルの新歓コンパで知り合った。彼女は、丸顔の新入生だった。新入生と言っても、一浪していて、他の新入生と比べたら、少し大人びた感じがした。新歓コンパの席で、彼女は僕の隣に座り、彼女は大学のことなどを中心にいろいろと質問をしてきた。僕は、その質問に対して、ひとつひとつ丁寧に回答した。
新歓コンパの後、その丸顔の女の子と一緒に帰ることになった。その丸顔の女の子は、僕の住む街の次の駅に住んでいた。電車の中では、僕のプライベートの話、彼女の話で盛り上がった。彼女は、東北出身で冬は大変だと言った。大学を出たら、地方公務員になって、地元に戻るつもりだと言った。そして、彼女は僕のことを尋ねた。僕に彼女がいるのか、僕は大学を卒業したら、どんな進路に進むつもりなのか。僕は、「彼女はいるし、その女性と結婚するつもりなんだ」と正直に答えた。
僕は、自分が住む街の駅に電車が近づいたので、降りようとすると、彼女は、僕の鞄の紐を握った。僕は、「どうしたの?」と聞いた。丸顔の彼女は、「引っ越してきたばかりで、深夜の道が怖いんです。ご迷惑なのはわかるのですが、家まで送ってもらえませんか?」と言った。僕は、一駅だし、その駅の間の距離もそんなにないので、自転車で送ろうかと思った。そこで、「じゃあ、次の駅で降りて、僕の自転車で送るよ。自転車なら大した距離もないし、僕もすぐに帰れる」と言った。丸顔の彼女は「ありがとうございます」と言った。
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彼女は、「私、怖いの。私もあなたのこと好きよ。そして、あなたはいい人で信じるに足る人だということも、これまで付き合ってきて、わかっているわ。でも、怖いの。あなたと寝た後、この世界が、今の生活が、変わってしまうんじゃないかって」と、涙を瞳からこぼしながら言った。
僕は、「大丈夫だよ。何も変わらない。僕を信じていてくれるだけでいい」と言って、僕は彼女を抱きしめた。彼女は、僕の胸に顔をうずめ、僕の温もりを感じてから、顔を上げて、「本当に信じていいのね」と尋ねた。僕は、「僕を信じて欲しい」と言った。
僕と麻衣は、その夜、初めてセックスをした。僕の部屋で、お互いのぬくもりと愛情をゆっくりと丁寧にひとつずつ確認をし合うように。
僕と彼女は、その後、前と同じように休日にデートをして、彼女の誕生日や僕の誕生日には少し背伸びをして、高めのレストランに行き、慣れない手つきでコースメニューを食べたりした。クリスマスには、彼女は親に嘘をついて、初めての旅行もした。時には大喧嘩をしながらも、僕たちはお互いに大学3年生になっていた。麻衣とは、大学2年生のときのクリスマスイブに結婚の約束をした。大学を卒業したら、結婚しようという約束だった。その頃から、僕と彼女は現実的な生活を意識し、僕にとって彼女は日常の風景であり、彼女にとって僕は日常的な存在であったはずだ。そして、将来の家庭の設計などを話すことが多くなった。彼女の家にも遊びに行き、僕と彼女は彼女の両親の公認の仲となった。
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夕方、図書館の閉館時間の間際になって、彼女が閲覧室から出てきて、図書館の玄関に向かっていた。彼女は、意識的に僕以外の受付で退館の手続きをして、帰ろうとした。僕は周りを気にする余裕がないほど、慌てて、帰ろうとしている彼女を呼び止めた。
彼女は、振り返り、僕を睨んだ。「麻衣!」と僕は言った。彼女は、「こんなところでやめて」と言った。「怒っている?」と、僕は聞いた。彼女は、ため息をついて、「こんなところで話したくないわ」と言った。僕は、「どうしたらいい?」と聞くと、さらに深いため息をついて、「そんなことは自分で考えなさい。さようなら」と言って、玄関に向かって歩き始めた。僕は、「待って」と言った。すると、彼女はもう一度、振り返り、「あなた仕事中でしょう。私もこんな人の目があるところで、話したくない。みんなから見られているのよ。本当に恥ずかしいわ」と言った。僕は、小さな声で「最初に二人で話した川沿いのあの公園で待っていて欲しい。仕事はあと10分ぐらいで終わる。その後、急いで行くから、待っていてほしい」と言った。彼女は、答えもせず、頷きもしないで、玄関を出て行った。
僕が仕事を終えると、自転車を最高速度で走らせて、川沿いの公園に向かった。公園に到着すると、彼女は最初に二人で話した日と同じようにブランコに揺られていた。
彼女は、僕を見つけると、頬を膨らませて、僕を睨んだ。僕は呼吸が整わず、息が荒かった。彼女は、「話って何?」と怒った口調で言った。僕は、呼吸が整わない状態で、「君と仲直りしたい」と言った。彼女は、「焦らないでって言ったでしょう。約束したでしょう。でも、あなたは約束を破ったの」と言った。僕は、「僕は君が欲しくてたまらないんだ。それは性欲の対象としてだけではなく、僕は心から君の事を求めているんだ」と言う。彼女は、「信じていたのよ」と目に涙を浮かべながら言った。僕は、「ごめん」と言う。彼女は、「謝らないで」と言う。
僕は、「君の全てが欲しい。君がいなければ、この世界は僕にとっては何の意味もないんだ。君のことを愛している」と言った。
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「そういうのはあまり好きじゃないって、言ったでしょう」と、彼女は怒った表情で僕に言った。僕は、「ごめん」と謝った。彼女は、「謝るぐらいなら、最初からしないでください」と、冷たく言い放った。僕は、謝ることさえもできず、ただ彼女の怒った顔を見ながら、黙っていた。
その日は、それ以上、全く会話がなく、ただ黙々とゆりかもめに乗り、黙々とそれぞれの家に帰った。僕は、もう彼女に会えない恐ろしさと不安を胸に抱え、夜、寝ることさえできなかった。
暫く、彼女からは全く連絡がなかった。僕は、彼女からの電話をひたすらに待った。電話のベルが鳴るたびに、心拍数があがり、彼女からの電話だと期待して、電話に出たが、相手は別人で、落胆の声で電話の対応をした。相手は相手で、僕が落胆しているから、ほとんどの人が気分を害していた。
そうしたことが一週間近く続いて、僕は生気を失った顔で毎日を、ただ時間が流れることに逆らうことなく、過ごしていた。そして、日曜日に図書館の受付に座っていると、彼女が図書館にやってきた。彼女は、僕を意識的に無視して、別の受付に向かった。僕は、俯いて、世界の終わりのように落胆した。
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それは長いキスだった。永遠に続くかのように、そして僕は彼女の全てを感じるように、彼女は僕の全てを感じるように、ゆっくりと口唇を重ねていた。
どれだけの時間が経過したのだろうか。僕の中で時間感覚は完全に無くなっていて、無重力状態に、自然に身を委ねるが如く、ただ柔らかく浮いている状態であった。この時が永遠に続けばいいのにと、僕は彼女の口唇から離れようとしなかった。
暫く経つと、彼女はゆっくりと口唇を僕の口唇から離した。そして、顔を少し赤らめながら、「もう・・・」と、小さい声で言った。そして、僕たちはお互いにじっと目を見つめあい、僕は彼女の瞳の奥にある彼女の心を見つめていた。
彼女は、「穴が開くから、そんなに見つめないで」と言った。僕は「えっ?」と聞いた。彼女は、「そんなに見つめると穴が開くから、見つめないで、っていう、台詞があるじゃない。よくドラマとかに。それを言ってみただけよ」と、少し、ふくれた感じで、髪を耳にかけながら、言った。
「じゃあ、本当に穴が開くか、見つめ続けてみよう」と、僕はからかった。彼女は、ため息をついた。僕は、もう一度、彼女の口唇に僕の口唇を重ねた。そして、今度は、僕は、片方の手で、彼女を抱き、片方の手で彼女の胸に手をかけた。その時、彼女は、「やだ」と言って、急に、僕から離れた。
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「まだ決心ができていないの」と彼女は言う。僕は手を肩から背中に回し、狂ったほど愛しく抱きしめた。彼女の顔が僕の横になり、彼女の髪は海風に揺らされ、僕の鼻にかかろうとした。そのとき、彼女の髪の匂いが柔らかく放たれ、それは僕にとっては想像を絶するほどの刺激となった。
僕は、何かが完全に吹っ切れてしまったように、全ての思考能力が停止し、明瞭な言葉も思い浮かばず、もちろん下半身も制御できなくなっていた。
「僕は麻衣のことが好きだ。心から欲しい」と言った。彼女は、僕の下半身の変化にも敏感に気がついており、少し困った顔をして、「もう仕方がないわね」と、少し呆れた感じで、僕に顔を向けて、目を瞑ったのであった。
僕は、彼女の口唇に一直線に、僕の口唇を動かし、僕たちはキスを交わした。
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女性を強く抱きしめたくなったり、もしくはとても愛しく感じる瞬間というものは、大抵、ふとした時にやってくる。足音を忍ばせて寄ってくる影のように、何気ないことがきっかけとなって。
僕は、彼女の左手を僕の右手で握った。彼女は、少し驚いたように、手を引っ込めようとしたが、暫くして、僕の右手を強く握り返した。僕の右手から感じる彼女の温もりは、手から腕を通じて、僕の心臓に届いて、僕の興奮をさらに高めたのであった。
僕の胸はその緊張感を楽しむ余裕もないほど、心拍数をあげていた。そして、それは僕の下半身を勃起させるに至るまで、僕は彼女の全てを手に入れたいと心から願ったのである。彼女は、僕の右手から彼女の左手を通じて、僕の緊張感は通じて、彼女も黙ったまま、俯いてしまった。
そして、お互いに黙って俯いたまま、海の方に歩き、公園の先まで来たとき、二人はそのままの状態で立ち止まった。秋の匂いと夏の香りが入り混じる潮風を力強く感じたとき、僕は彼女の肩を抱き、そして、彼女の身体を僕のほうに向けた。彼女は嫌がる素振りで、なんとか僕の腕の中から逃げ出そうとした。
彼女は、「だめよ」と言った。僕は目を瞑ったまま、黙っていた。彼女は、「まだ怖いの」と言った。しかし、その言葉は僕には到底届かなかった。僕は、頭の中が彼女のことで支配され、冷静な判断力はとうに失っていたからである。
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僕と麻衣は、あの日以来、図書館以外でも会うようになった。図書館が終わってから、自転車に乗って、川沿いの土手に行き、一緒に寝そべったり、休みの日は、電車に乗って、新宿のデパートに買い物に行ったりした。
そして、彼女は僕に、彼女の家族のこと、飼っている猫のこと、そして大学で勉強していることなどを話してくれた。僕は真剣に彼女の話を聞き、頷いた。僕はたまに彼女の話について、感想を述べた。彼女は、その感想に対して、強く否定したり、弱く肯定したりと、お互いの間の会話が自然に続いていた。気がつくと、辺りは暗くなっていて、彼女は時計を気にしながら、自転車で急いで帰っていくという日もあった。
夏休みが終わり、僕たちはそれぞれの大学のキャンパスに戻っていった。そして、お互いに日常的な生活に再び溶け込もうとした。しかし、前期期間とは違うファクターがお互いにあり、その不思議な違和感を楽しもうとしていた。
デートの場所も大学が始まると、図書館の近くではなく、お互いのキャンパスやその周辺になっていった。彼女の門限は、22時だったので、遠出はあまりできず、大抵は休みの日の午前中に待ち合わせをして、夜まで二人だけの時間を楽しもうとしていた。
ある休日の夜、僕たちはお台場に行き、映画を見て、食事を楽しんだ。その後に、潮風公園を散歩することになった。まだ夏の名残が感じられて、夜になっても残暑が続いていた。しかし、秋風の匂いも感じられ、僕の心は彼女を抱きしめることだけで一杯になった。
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暫く、山口さんと世間話をした。山口さんは、元々、商社に勤めていて、輸入ワインの買い付けの仕事をしていた。その仕事を通じて、この店のオーナーと出会い、そして、この店の副支配人となった。この店のオーナーは、純粋な出資者であって、口をほとんど出さない。現在は、支配人のなつこさんと副支配人の山口さんに基本的に経営を任されている。なつこさんは、お店全体のアレンジメントやコーディネーションの企画を作るプランナーであり、実務は山口さんが行っているということであった。彼女の能力を最大限に発揮するための絶妙な役割分担であると、僕は感心した。山口さんは、離婚をしていて、今は独身であった。子どもは、小学生の女の子で、別れた奥さんが育てているということだった。
山口さんは、「明日、娘が創立記念日で、午前中に私のアパートに遊びに来るんですよ」と、穏やかな笑みを浮かべて、本当に嬉しそうに言った。
僕は山口さんと話していて、実に気が合う感触を受けていた。山口さんも同じだったに違いない。だから、彼は自分のプライベートのことまで、僕に話したのだと思う。それと同時に、僕は、山口さんに対して、なつこさんと一緒に仕事ができることへの羨ましさと嫉妬の気持ちを感じていた。
僕は、自宅に戻り、ワイルドターキーの水割りを作った。そして、小説の文庫本を片手に、ウイスキーを舐めながら、クラシック音楽を聴いた。静かに夜が更け、ほどよい眠気がやってきたので、僕は寝ることにした。僕は、今夜、もう一度、青い蝋燭に火を灯し、ユミに会うつもりであった。もしかすると、それはユミではなく、麻衣の夢を見ることになるのかもしれないけれど。
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僕は、バーのカウンターで、チョコレートとソーセージをつまみながら、マティーニに口を付けていると、なつこさんがやってきた。なつこさんは、「昨日はどうもありがとう」と言った。僕は、「どういたしまして。最高のアレンジだった」と言った。なつこさんは、「あなたに満足していただけて、うれしいわ」と言った。僕は、「やっぱり君は素晴らしい。最高だよ」と言った。なつこさんは、「うれしいわ」と答えた。
僕は、「今夜、仕事が終わってから、会えるかな?」と尋ねた。なつこさんは、「今夜はごめんなさい。先約が入っているの。」と言った。僕は、「いいよ」と答えた。なつこさんは、「また電話するわ。今度、お食事でもご一緒しましょう」と言った。僕は、「楽しみにしている」と答えた。なつこさんは、「ゆっくりしていってね」と言うと、申し訳なさそうに、仕事に戻っていった。
僕は、マティーニを飲み終わると、ボーモアの15年ものをロックで注文した。そして、一緒にチェイサーを頼んだ。チェイサーに口を付けると、とてもおいしかった。「これはおいしい」と僕は言うと、背後から山口さんが「それは特別な水なんですよ」と言った。
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「昨夜はごちそうさまでした」と、レイコさんは言った。そして、レイコさんはおもむろに鞄の中から、鈴が付いたストラップを取り出した。「最近、ご馳走になりっぱなしなので、ささやかなお礼です」と言った。僕は「かわいい根付だね」と言った。レイコさんは、「最近はストラップと言うんですよ」と言った。僕は「とくに、この熊の飾りがいい。抱きしめたくなるほど、愛くるしい目をしている」と言った。彼女は、「社長は、そういうの好きだと思いました。結構、「かわいい」系が好きですよね」と言う。僕は、「よく僕は「かわいい」と女の子から言われるよ」と笑いながら言った。彼女は、「社長が「かわいい」?」と言うと、言葉を失った。僕は、「僕は「かわいい」系じゃない?」と聞いた。彼女は、「時々、仕草とかが「かわいい」時はあるかもしれませんね」と言う。僕は、「時々?」と聞くと、「時々」と彼女はぼそっと言った。その言葉には、すでに妥協というか呆れた感じのため息が混じっていた。「ストラップ、早速使わせてもらうよ」と言って、携帯電話にストラップを取り付けた。ストラップが揺れると、チリーンと音が響いた。「いい音だ」と僕は言った。
夕方になって、レイコさんが帰宅すると、僕は適度なところで仕事を終え、なつこさんの店に行くことにした。虎ノ門の交差点でタクシーを拾い、青山に向かった。店に着くと、昨日と同じように山口さんが出てきて、席に案内してくれた。山口さんは、「昨夜はどうもありがとうございました」と丁寧に挨拶をした。僕も「昨夜はおいしいお料理をありがとう。今日は、軽く飲みに来たんだ」と言った。山口さんは、「それでしたら、バーの方にご案内いたします。カウンターでよろしいですか?」と尋ねたので、僕は「もちろん」と答えた。
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事務所に着くと、日常の風景、つまり、レイコさんのいる風景が広がった。レイコさんは、僕の顔を見るやいなや、「社長、顔色悪いですよ」と言った。
「そうかな」と僕が答えると、レイコさんは、「幽霊でも見たみたい」と言った。
僕は、「君はあまり科学的ではないことを信じないと言ってたけど、幽霊は信じるの?」と聞いた。彼女は、「言ったじゃないですか。人間の認知できない存在は必ずあるって。それが幽霊なのかどうかわからないけど、幽霊みたいに、私たちが常識的に捉えられないような存在は絶対にあるんです。全てが科学的に説明できるなんていうのは、ただの人間の驕りです。人間は、もっと謙虚にならなければいけません」と言った。
僕は、「そうだね」と答えた。そして、「もっと謙虚になれば、温暖化問題も解決できるかもしれない」と言った。彼女は、「今日も暑いですよね」と答えた。僕は、「この暑さで南極の氷が解けるかもね」と言った。そうすると彼女は、「ぺんぎんさんがかわいそう」と言う。僕は「アザラシさんもかわいそうだね」と言う。こう言いながら、「南極にアザラシはいたっけ?」と、頭の中で考えていた。
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ユミは夢の中で、僕には大きく深い欠落があることを指摘した。麻衣は、僕に主体性や感情がないということを指摘した。そして、僕は自分の世界の中から出ようとしないと口を揃えて言った。夢の中で現れた麻衣も僕の記憶や意識が作り出した僕自身なのだろうか。
青い蝋燭を手に取ると、まだ半分ほどが残っていた。もしかすると、この青い蝋燭に再び火を灯せば、まだ夢の中で、何かが進むに違いないと思った。もしかすると、答えは今夜明らかにされるかもしれない。僕はそう思った。
そんなことを考えていると、なつこさんの顔が急に愛しくなった。今からすぐになつこさんに会いたい。なつこさんの声を聴きたいと思った。そう思うと、僕はすぐになつこさんの店に行きたくなった。しかし、この時間に、なつこさんのお店に行っても誰もいないことは常識的にわかっていた。そこで、取りあえず、ラッシュアワーが終わる頃に、虎ノ門の事務所に行くことにした。
「君はその欠落を埋めなければいけない。そうしなければ、君の運命の針は先には進まない。掘って埋めるんだ。埋めて掘る。その繰り返しを続けていけば、君の運命の針は必ず進む。そうすれば、君は君自身の運命を知ることが出来る」
僕の頭の中に、蝋燭屋の店主の声が響いた。手がかりは、あの青い蝋燭に違いないと感じていた。
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僕は目覚めると、自分の部屋のベッドの中にいた。昨夜、新宿の蝋燭屋に行き、青い蝋燭に火が灯された瞬間から、僕に記憶はなかった。記憶にあるのは、安嶋麻衣の記憶だけであった。麻衣は、僕の腕の中で、「僕もだよ」と言い、僕が「なんだかおかしいね」と聞きなおしていた。僕は、シャワーを浴びながら、昨夜の夢の意味を考えようとしていた。蝋燭屋の店主は言った。「掘るんだ。とことん掘るんだよ」と。「とにかく掘るんだ。夢の世界であれ、現実の世界であれ、掘り続けるんだ」と。僕は、何を掘るべきなのか、まだ何もわかっていない。でも、今感じていることは、とにかく僕は何かを掘らなければいけないということだった。
僕は、夢の中でユミに会いたいと思った。それで、あの蝋燭屋での体験を再現すれば、もう一度、ユミに出会えると思った。しかし、僕の夢の中に現れたのは、麻衣であった。麻衣は、「僕もだよ」と言った。そして、「あなたには人間味を感じないのよ」と言い、僕に主体性がないと怒った。
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彼女は、「私は男の人と寝たことないの。だから、寝るということが具体的にどういうことなのか、言葉でしか知らないわ。でも、私は大学に入ってからこれまで、いろいろな男性に性欲の対象として、声をかけられ、誘われたりもしたわ。でも、恋愛って、そういうものではないと思ったの」と言う。
僕は、「うん、そうだね」と答える。
「確かに恋愛の延長に、セックスがあるとは思うの。それは認めるし、否定しないわ。しばしば、多くの男女は性欲と恋愛を混同したり、取り違えたりすると思うの」と、彼女は言った。
「そうだね」と、僕は頷く。
「もし、あなたが、他の男性と同じように私を性欲の対象として捉えていて、ただ私と寝たいためならば、もう会いたくない。そう思ったの。私はあなたのこと、よく知らない。どんな人間なのか、全く知らないの。ただ、いつも図書館の受付で会うことだけでしか、あなたのことを知らない。でも、最初に会ったとき、私はあなたに何かわからないけど、魅かれるものを感じたの。だから、興味を持っていて、もしあなたのことを知ることができればいいと思っていた。でも、怖かったの」と彼女は言った。
僕は、「わかるよ」と言った。
彼女は、「あなたを信じていいの」と聞いた。
僕は、「いいよ」と答えた。そして、
「僕はとにかく君とこうして会って、一緒にいる時間が作れれば、それだけで幸せなんだ。セックスのことは二の次、三の次。僕は、君のことが好きだ。口説き方としては、最低かもしれないけど、僕は君と付き合いたいと思っている」と言った。
彼女は、「でも、私はあなたのこと何も知らない」と言う。
僕は、「僕もだよ」と言った。彼女は、「えっ?」と聞きなおす。
「僕もだよ。僕も君の事、ほとんど知らない。でも、何か言葉では説明できない空気とか目では見えない何らかの遺伝子レベルの本当に小さな粒子のぶつかり合いの結果かもしれないのだけど、君のことが好きだと思った。そして、君に会いたいと思うし、君ともっと一緒にいたいと思ったんだ」と、僕は言った。
彼女は、口元に笑みを浮かべて、「じゃあ、まずはお互いにどんな人間なのかを知ることから始めるということでいい?」と聞いた。
僕は、「最高だ」と言った。
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「この前、行けなかった理由よ」と彼女は言う。僕は、「別に興味がない」と答えた。すると彼女は、「なんで興味がないの?」とさらに聞く。僕は、「過ぎたことだから」と言う。彼女は少し悲しい顔をした。僕は、「怒っていっているわけじゃないよ。僕は過去のことよりも未来のことに興味がある。それだけのことなんだ」と言った。彼女は、「未来のこと?」と尋ねた。
「僕は君が好きだ。それは3日前から変わっていない。むしろ、その気持ちは強くなる一方だ。君には迷惑かもしれないけど」と言った。彼女は、「迷惑なんかじゃないわ」と言う。「確かに3日前に君に会えなかったのは残念だよ。かなり落ち込んだ。でも、それはもう過ぎたことなんだ。僕が興味あるのは、これからの君と僕との関係なんだ」と言った。
彼女は、「私と寝たい?」と言った。僕は少し驚き、戸惑った。そして、「それだけではない」と言った。彼女は、「それだけではないって?」と聞いた。僕は、「例えば、よく男性の中には女性を性欲の対象としか見ていない人もいる。僕も性欲がないわけではないし、多分、人並みにあると思う。だから、女性と寝たいと思うし、もちろん君と寝れたら、とても素晴らしいことだと強く思う。君にはそれだけの魅力がある。でも、それだけではないんだ。それだけではない。君の側にいて、君の笑顔を眺めたり、君の声を聴いたり、もっと君と話したい。君と一緒に日常を楽しみたいんだ」と言った。
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「何するのよ。びっくりするじゃない」と、彼女はあからさまに怒りを露にした。
僕は、「君の怒った表情も悪くない」と言った。すると、彼女は、
「もう私帰る」と言って、ブランコを降りた。僕は、彼女の姿を黙ってみていた。彼女は本をしまい、鞄を自転車のカゴに入れ、自転車の鍵を開けた。
「ごめん。ごめん。別に冷やかしているわけじゃないんだ。怒っている君もかわいくて」と、僕は顔に笑みを浮かべながら言った。彼女は、相変わらず、頬をふくらませ、口を尖らせ、こちらを見た。
「この前は、悪いことしたと思っているのに、損したわ」と彼女は言う。
僕は、「ごめん」と言った。
「少し歩きましょう」と、彼女は、自転車を押し始めた。僕は、「ちょっと待ってよ」と言って、僕も自転車に向かって走って、自転車の鍵を開け、自転車を押しながら、走った。
「誰が待ってあげますか」と、彼女はすたすたと公園を出て、川の上流に向かって歩き始めた。僕は彼女に追いつくと、彼女の横に並んで、自転車を押しながら歩いた。そうしながら、5分間はお互いに黙っていた。そのうち、彼女から話を切り出した。
「ねえ、理由は聞かないの?」と彼女は言った。
僕は、「理由?」と、聞き返した。
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僕は、「うれしいよ」と答える。
彼女は、「仕事は何時に終わるの?」と尋ねた。僕は、「17時30分には帰れるかな」と答える。すると、彼女は「17時30分まで、私待っているから。仕事が終わったら、川沿いの遊歩道の中にある小さな公園に来て。私、そこであなたのこと待っているから」と言った。僕は、「遊歩道の中の小さな公園?僕は知らないんだけど。」と聞いた。彼女は、「来ればわかるわよ」と言って、図書館を後にした。
僕は、17時過ぎに仕事が終わって、すこし後片付けをして、自転車に乗って、川沿いの遊歩道に向かった。僕の中で会いたい気持ちともしかすると会わない方がいいんじゃないかという気持ちが複雑に絡み合っていた。
夏の夕方のまどろみが、川沿いの遊歩道を包んでいた。僕は、夏の夕方、しかも少し涼しくなってきた時間帯が好きだ。一日が終わるまでに、まだ時間があると、僕に希望を持たせてくれる。
僕が遊歩道の中にある小さな公園に到着すると、すでに彼女は待っていた。彼女は、ブランコに乗って、本を読んでいた。僕は、彼女に気づかれないように、彼女の背後に回って、彼女のブランコを押した。彼女は、かわいい悲鳴をあげて、驚いた。そして、頬をふくらませて、口を尖らした。
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僕は、朝まで考えて、昼休みに公衆電話から、彼女のポケベルにメッセージを送った。自然に今の気持ちを表現したら、「マタアエル?」という一言が思い付いたのであった。
昼休みが終わって、彼女が大抵の日常の場合に、図書館に来る時間がだいぶ過ぎて、夕方が少しずつやってきたとき、彼女は図書館にやってきた。そして、受付にいる僕に向かって、一直線に歩いてきた。
「先日、借りた本を返しにきたの」と、彼女は言った。
「はい。ありがとうございます」と、僕は本を受け取る。
「この前は仕方がなかったのよ」と、彼女は小声で言った。
「いいよ」と、僕は答えた。彼女は、「怒っている?」と聞くので、僕は「怒っていないよ。誰でも急用ができてしまうときがある。その場合は仕方がないさ」と言った。彼女は、「ごめんね」と謝る。僕は、「気にする必要はないよ」と答えた。
「私もあなたに会いたかったのよ。でも、ここでは詳しく話せないけど、どうしても優先しなければいけない用事ができてしまったの。早めに連絡できなかったのは、謝るわ。ぎりぎりまで、待ち合わせの時間と場所に行こうとしていたから、連絡ができなかったの」と彼女は言った。僕は「わかるよ」と答える。続けて、「私も楽しみにしていたのよ。その日の夜に謝ろうと思って、電話しても、誰も出ないし、あなたを怒らせてしまったかと思って、昨日は、あなたに顔を合わせづらくて、ここに来られなかったわ。でも、あなたからメッセージをもらって、「マタアエル?」と送ってくれたから、すぐに会いに来たのよ」と、彼女は言う。
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そこで、僕はもう一度、ポケベルに連絡する決心をした。次に、僕は、どんなメッセージを送るかだ。
「キミノコトガスキ」? これだと、「だから、なんなのよ」という感じだろう。
「キミニアイタイ」? 「この前は仕方がなかったのよ」と下手したら、彼女を怒らせてしまう。
「キミヲカンジタイ」? 意味が通じない。それなら、「キミヲダキタイ」? いきなり、見知らぬ、図書館の受付の男からこんなメッセージが届いたら、確実に気持ち悪い。僕が彼女の立場であれば、二度と顔も見たくないほど、気持ち悪い気分になる。
僕は、一晩中、彼女にどんなメッセージを送るのか迷った。現代のように、メールでどのような長さでも送れる時代ではない。10文字とかそんな程度が限界だろう。
こんなとき、レイコさんがいてくれたら、かなり気の利いたメッセージを考えてくれるに違いない。しかも女性の気持ちを代弁して、適切な対処方法を提案してくれるはずだ。しかし、この夏に、僕はレイコさんのことは知らないし、まだ彼女の年齢は中学生だ。だから、一人で考えるしかない。
「マタアエル?」
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僕は、ここは男らしく振られる方がショックが小さいのではないかと思った。彼女のポケベルに連絡して、返事を期待して、その期待に裏切られたら、僕はもう、きっと、立ち直れない。それならば、これ以上、傷口を広げない方が賢明であろう。
しかし、彼女が、本当に何か突然の用事で来ることができなくて、僕に連絡を取りたがっていたら、そして、仮説として、彼女は僕の自宅に電話したけれども、僕が留守中であって、電話に出られなかったということであれば、彼女はどのように思うだろうか。きっと、こう思うに違いない。
「連絡とっているのに、なにやっているのよ、もう」
つまり、彼女次第なのだ。僕は深く考える必要はない。ただ、素直に僕は僕の気持ちを伝えればいいのだ。僕の気持ち?それは、「君に会いたい」だ。それ以上もそれ以下もない。
「君のことが好き。君の側にいたい。君を感じていたい。だから、君に会いたい」
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翌日、彼女が図書館に来ると、安堵の気持ちと喜びと興奮がそれぞれに交差して、僕を僕でなくした。そして、僕は、その日の夕方に、彼女につい「君が好きです」と口に出してしまったのであった。
それから3日後、僕は彼女と映画を見る予定であったが、僕は一人でラーメンをすすって、自宅に帰り、テレビのお笑い番組をバックミュージックに、布団をかぶって、寝た。そして、泣いた。「僕は彼女に振られたのだ」、僕はそう自分に言い聞かせて、朝が来るのを待ったのであった。
翌日、僕は図書館にアルバイトに行った。彼女に会えなかったショックは残っていたが、仕事は仕事だと割り切って、自転車に乗った。しかし、もし彼女が図書館に彼女の日常と変わらず来るのであれば、僕は彼女に顔を合わせるのは辛く、このまま自転車でハワイまで走って逃げたくなった。
僕は、図書館の受付に座りながら、彼女に会いたい気持ちと会いたくない気持ちを相互に交換をしながら、しかも相当に入り組みながら、仕事をした。昼過ぎのいつもの時間になっても、彼女は図書館には来ることなく、その日は閉館した。
僕は安心するとともに、やはり会いたい気持ちが強くなって、どうしようもないほど、切なくなった。そのとき、僕は彼女のポケットベルの番号を教わっていたことを思い出した。僕は公衆電話に走り、ポケットベルの番号を打とうとした。そのとき、「未練がましくないか」、と独り言をつぶやいた。彼女が仮に、いやかなりの確率で、僕のことを相手にしていない、もしくは振ったのであれば、ここでポケベルを鳴らせば、彼女はどのように思うだろうか。きっと、こう思うに違いない。
「うざったい」
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僕は、ラーメン屋さんで、ラーメンを注文して、彼女のことを考えながら、ラーメンを啜った。僕は振られてしまったんだろうか。僕は勘違いをしていたんだろうか。僕は何度も彼女のことを思い出し、そして自己に問い直していた。
僕は、この頃、恋愛に対して、かなり焦り過ぎていたようだった。何か僕の心の中で空いた穴を埋めるために必死に、その穴に合うピースを探していた。
なぜ、その頃、僕の心に穴が開いていたのかはわからない。でも、その穴に水を差し込んでも、土を埋めても、いつも満たされることはなかった。
具体的には、ぽっかりと開いた僕の心の穴を埋めるために、自傷行為的に女性と寝た。性欲があったわけではない。闇の中で不足している僕のもう一対の影を手探る感じで、僕は女性と寝たのであった。しかし、女性と寝ることで、僕の性欲が充足することはなかったし、心が癒されたり、さらにはもう一対の影が見つかるということもなかった。そして、繰り返し多くの女性と寝ることで、僕の心は廃れていった。女性と寝ることさえも、つまり性欲さえも面倒な存在となり、僕は暗い迷路の中を彷徨っていた。
僕は、区立図書館の受付で、貸し出し票をチェックしていたから、彼女の名前が安嶋麻衣さんだということを知っていた。毎日、彼女は昼過ぎに図書館にやってきて、夕方まで本を読んだり、勉強をしたりして、夕方に本を借りて帰っていく。それが彼女にとっての日常であり、その風景を見ることが、僕の日常であった。
彼女は、よく白いワンピースを着て、大きなつば広帽子をかぶっていた。髪は美しいほど黒く、日によって、後髪をひとつに結んだり、ふたつに結んだり、みつ編みにしていた。指は透き通るほどに白く、彼女がピアノを弾く姿を想像した。(彼女が実際にピアノを弾くかどうかはその時はわからなかったが、後で、やっぱり、ピアノを弾くことを知り、僕の想像が間違っていないことが証明された)
僕は、彼女の声を聴くたびに、緊張したり、ドキドキした。そして、彼女がなぜか区立図書館に来なかった日の夕方、僕は彼女に自傷的ではなく、生産的に恋をしていることを知った。彼女に会いたい。彼女の声を聞きたい。僕は、そのことで頭が一杯になっていた。
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僕は「3日後の午後とかはどうですか?」と聞いてみた。すると、彼女は、「大丈夫よ」と笑いながら答えた。「ごめんなさい。なんだか性急すぎますよね。でも、なんだか、今、約束をしないと、永遠に約束ができないような気がして」と、少し恥ずかしがりながら、僕は言った。彼女は、「いいのよ」と言った。そして、彼女は、僕にポケットベルの番号を教えてくれた。僕はポケットベルを持っていなかったので、自宅の電話番号を彼女に渡した。そして、待ち合わせの時間と場所を決めた。
3日後の午後まで、僕は手に取るものも付かず、ただ彼女とのデートのことで、頭が一杯になっていた。女の子とデートするのは初めてではないし、女の子と性的に交わることも初めてではない。でも、なんだか緊張した。そして、彼女のことを考えずにはいられなかった。
デート当日、僕はできる限りのお洒落をして、また少し大人っぽく背伸びをして、待ち合わせの場所に、一時間も早く向かった。そして、緊張感の中で、待ち合わせの場所に立ちながら、一時間、二時間待ったが、彼女は来なかった。僕は何度も時計に目をやったが、確かに待ち合わせの日時に間違いはなかった。僕がいつのまにか時空を超えて、4日後に先に行ってしまったりしていたわけではなかった。確実に3日と時が経過を僕は確認した。もしかすると、僕は一日多めに寝ていて、いつのまにか3日後がどこかに行ってしまったのかもしれない、という余計な心配もしたが、そんなことはありえなかった。ただ、状態として、彼女はこの場所に現れなかったのだ。
僕は肩を落として、待ち合わせ場所に3時間、4時間と立ち尽くした。彼女が来るはずもない待ち合わせ場所で、一人でじっと彼女の姿を探した。しかし、彼女の姿は見つからなかった。一時の夢に僕は踊り、そして幻想の中で生きていた。彼女とのデートがとても楽しみだったし、それが一縷の光明として、僕はこの二日間は、どんな苦しく辛い出来事にも堪えることができた。でも、最も辛い結果にいま、直面している、そんな気になった。
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彼女は、少し軽いため息をついて、「質問に答えていないじゃない。私が聞きたいのは、あなたには、「こうしたい」とか、もっといえば、「うれしい」とか「かなしい」とか、そういう気持ちってあるのって、ことなの。私はあなたには、無機質な感情しか感じないの。機械というかロボットみたいで、あなたには人間味を感じないのよ。もし、そういう気持ちを感じているのであれば、もっと表現をするべきではないかしら」と僕を諭すように言った。
僕は少し驚いた。その後、少し冷静さを取り戻し、「僕は、それなりに「こうしたい」とか「こうありたい」とか思っているし、「うれしさ」とか「かなしさ」も持ち合わせているよ。いま、僕は君のことが好きだし、愛している。だから、いま僕は君と一緒にいれてうれしいし、もし別れることになったら、悲しいと思うと思う」と、自分の気持ちを伝えた。
「それなら、もっと、そういうのを表現しなくちゃ。いつも「僕もだよ」だけだったら、私、悲しいわよ。あなたは、あなたの世界の中で生きていちゃいけないの。もっと、自分をさらけだして、自分の世界の外に出てこなくちゃ。私はあなたでもないし、あなたのお母さんでもないし、他人なの。だから、あなたの世界には入ることはできないの」と彼女は一生懸命、少し涙を目に貯めながら話した。
彼女の名前は安嶋麻衣と言った。僕は、大学1年生の夏休みに区立図書館でアルバイトをしていた。昔から、本を読むことが好きな僕にとって、本の中でアルバイトができることは、大変な喜びであった。僕は、仕事が暇なときに、区立図書館にある本を読み、もしくは文章を書いていた。毎日、区立図書館に来る女の子がいた。それが安嶋麻衣だった。彼女は司馬遼太郎の本を借りていった。僕は、「司馬遼太郎っていいですよね」と、貸し出し手続きをするときに、緊張しながら言った。彼女は、「私、司馬遼太郎って好きなんです」と言った。「僕も好きです」と、僕は声を震わせながら言った。そして、「君が好きです」と、余計なことまで言ってしまった。彼女は、最初は呆気に取られていたが、少し経って、くすっと笑った。僕は赤くなって、その場にいるのも恥ずかしくなって、どこかに隠れたくなった。彼女は、笑い終わると、「今度、映画でも見に行きませんか」と言った。僕は、びっくりして、声を裏返しながら、「はい」と言った。
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「僕もだよ」
彼女は、僕の腕の中で、そう呟いた。彼女と寝た後、僕は無意識に「愛しているよ」と言ったようだった。その後、彼女は「僕もだよ」と言って、小さく笑った。
僕はその意味がわからなかった。「私もよ」とかいうことであればわかるのだけれども、なぜ彼女が自分のことを「僕」なんて言うのか。理解できなかった。
「どうしたの?」と、僕は優しさを言葉に含めながら、彼女に聞いた。
彼女は、「いつもあなたが言う言葉よ」と言って、くすっと笑った。
「僕はいつもそんなこと言ったっけ?」と聞きなおした。
「いつも「僕もだよ」って言うじゃない。気が付いていないの?」
彼女は不思議な感じで、僕に疑問をぶつけてきた。
「あんまり覚えていないや。」僕はそう答えた。
彼女は「ふーん。私、時々思うんだけど、あなたに、主体性ってあるの?」と、僕の腕の中にいた彼女は、半身だけ少し浮かばせ、そして僕を覗き込むようにして、言った。
「主体性かぁ。あるのかもしれないし、ないのかもしれないね。僕がこうして生きているのは運命かもしれないし、必然かもしれない。または、僕が生まれてきたのは偶然なのか、わからないよ。でも、不思議だよ。何億分の一の確率で僕が生まれてきているわけで、もし、違う精子が受精したんだったら、僕は僕でないかもしれないんだからね。だから、そもそも主体性なんて、あるんだろうかって、思うことはあるよ。」
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タクシーで、レイコさんを広尾まで送った。タクシーの中で、レイコさんはしつこいぐらいに、なんで誘わなかったのかとか、もったいないとかと散々文句を言った。僕は聞き流した。広尾で、レイコさんを降ろした後、僕は突然、新宿のあの蝋燭屋に行こうと思い付いた。そこで、タクシーの運転手さんに、新宿の歌舞伎町まで行ってもらうように言った。
一週間前に彷徨った記憶を頼りに、僕はあの蝋燭屋に向かった。すると、一週間前と同じ場所にその蝋燭屋はあった。僕は暖簾をくぐると、一週間前と同じ初老の男性が店番をしていた。
「いらっしゃい。また来たんだね」と、その男性は言った。
「もう一度、夢の中で、ユミに会いたいんだ。だから、あの赤い蝋燭が欲しいんだ」と、僕は入る早々、注文をした。男性は、「同じ蝋燭はないんだ」と言った。僕は、「こんなに多くの蝋燭があるじゃないか」と反論した。「全く同じ蝋燭はないんだ。ひとつの蝋燭は一度しか使えない」と言う。僕は、「僕はそうしたら、どうすればいいんだ」と男性に尋ねた。
「君がここに来ることはわかっていた。偶然ではなく、それが運命であり、必然なんだ。石和裕美が死んだのも偶然に交通事故にあったからではなくて、交通事故にあうのが運命だったんだ。その運命の必然の結果として、彼女は死んだ」と男性は言った。
「あなたは、石和裕美のことを知っているの?」と、僕は聞いた。男性は、「石和裕美本人のことは知らない。しかし、君を取り巻く運命は知っている」と言う。僕は、「それじゃあ、僕はどこに向かおうとしているの。僕の運命の先には、何が待っているの?」と尋ねた。男性は、「そう焦るな。君は君自身で、自分の運命を知らなければいけないんだ。人から教えてもらうことはできないんだよ。だから、掘るんだ。とことん掘るんだよ」と言う。僕は「何を掘る?」と言った。男性は、「とにかく掘るんだ。夢の世界であれ、現実の世界であれ、掘り続けるんだ」と言った。
「ユミは、君の欠落を指摘した。君はその欠落を埋めなければいけない。そうしなければ、君の運命の針は先には進まない。掘って埋めるんだ。埋めて掘る。その繰り返しを続けていけば、君の運命の針は必ず進む。そうすれば、君は君自身の運命を知ることが出来る」と男性は言う。
僕は、「僕は、何をすればいいの?どこを掘って、どうやって僕の欠落を埋めるの?」と聞いた。男性は、青い蝋燭を取り出し、火を灯した。僕は青い蝋燭に灯された火を見つめた。そのうちに、僕を深い暗闇が包んだ。そして、僕の意識は徐々に現実の世界から遠のいた。僕は、そのとき、なつこさんの顔を思い浮かべていた。しかし、そのなつこさんの顔も徐々に小さくなっていった。
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僕たちは、食事を終えると、最後のデザートとコーヒーを待った。僕がぼんやり夜景を見ていると、レイコさんは、「私は適当なところで失礼しますので、後は、なつこさんとうまくやってくださいね」と言った。僕は、「えっ?」と聞き返した。レイコさんは、「私のことは気にしないで、なつこさんを、この後、どこかに誘ってあげるといいと思いますよ。せっかく、プレゼントも買ってきたんだし。」と言った。僕は、「でも、彼女は支配人なんだから、まだお店があるだろう」と言った。レイコさんは、「だから、後で、電話してとか言っておいて、この辺で待っていればいいじゃないですか。私は23時ぐらいまでだったら、待つのに付き合いますよ。うふふ」と言う。僕は、「どうしても、僕となつこさんをくっつけたいみたいだね」と言った。
僕は、山口さんを呼び、お勘定をお願いした。山口さんは、「本日のお勘定は結構でございます。支配人より、そのように申し付けられておりますので」と言った。僕は、「きっと山口さんを困らせることになると思うけど、僕はお客さんとして来ているんです。それが、吉澤さんとの約束だから、お勘定をお支払いしたい」と言った。山口さんは、困った顔をして、「それでは、支配人を呼んでまいりますので、少々、お待ちいただけますか」と言った。すぐになつこさんがやってきて、「今夜は私がお誘いしたんだから、いいのよ」と言った。僕は、「約束が違うよ。僕はお客さんとして来る、そして君の最も自信のあるアレンジを注文する。これは君と僕との真剣勝負なんだと、僕は言った。僕は、今日、君の最も自信のあるアレンジを注文した。そしてそれは大変素晴らしかった。だから、僕はその素晴らしいサービス、君と君のスタッフに敬意を表して、料金をお支払いしたいんだ」と言った。なつこさんは、「うれしいわ。本当は私の方がお礼をしなければいけないところだけど、今回はお勘定を頂くことにするわ。でも、必ず、お礼をさせてね」と言う。僕は、「楽しみにしているよ」と言った。
そして、店を出る際に、僕はなつこさんに、そっと包みを渡した。その包みの中身は、ウェッジウッドのワイルドストロベリー。「お祝い。君にきっと似合うと思うティーカップ」と耳元で小さな声で囁いた。彼女は、「ありがとう。うれしいわ。」と言った。僕は、「いつでも電話をしてきてほしい。応援しているよ」と言った。彼女は、「必ずするわ」と言って、僕とレイコさんを見送った。
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石和裕美が死んで、一週間が経った。一週間前、僕は、新宿のある蝋燭屋に立ち寄り、不思議な経験をした。その後、夢の中で、記号としてのユミに会い、石和裕美のメッセージと思われるいくつかの言葉を聞いた。そして、その翌日に石和裕美が死んだ。時間にしてみればたった二日間の出来事であったけれど、1年分以上の重みがあった二日間だった。
その後の一週間、僕は仕事に集中した。もういちど、ユミに会わなければいけない、と思いつつも、それを実行するためには、多くの勇気と労力が必要であった。もし、ユミともう一度会ったところで、何を僕は知ろうとしているのか。そして、ユミに会うどんな理由を僕は持っているというのだろうか。
そんなことを考えているうちに、僕は決意をしながらも、行くべきか行かざるべきかを行ったり来たり、循環をしていた。
今夜は、レイコさんとなつこさんの店に行く約束をしていた。石和裕美の件では、レイコさんに迷惑をかけたので、そのお礼の意味を込めて、彼女を食事に誘ったのであった。僕はなつこさんの店に、昼間のうちに電話をすると、なつこさんが電話に出た。
「今夜、うちの竹下と一緒に、お伺いするよ」と、僕は言った。なつこさんは、「まあ、うれしいわ。レイコさんとお会いできるのも楽しみにしているわ」と言った。
僕とレイコさんは、仕事が終わってから、タクシーに乗り、なつこさんの店に向かった。なつこさんの店に着くと、黒服を着た男が店のドアを開けてくれた。そして、僕は僕の名前を告げると、「お待ちしておりました」と、レイコさんをエスコートして、僕たちの席に案内をしてくれた。
なつこさんが、僕たちに用意してくれたのは、夜景が素晴らしいVIP用の個室であった。その黒服の男は、山口と名乗った。この店の副支配人ということであった。山口さんは、「いま、支配人も参りますので、お待ちください」と言い、ワインリストを僕に差し出した。僕は、赤ワインと白ワインを一本ずつ注文した。
山口さんは、「かしこまりました」と言い、部屋から出ると、入れ替わりに、なつこさんが部屋に入ってきた。「いらっしゃい。本当に来てくれたのね。うれしいわ。今日は、うちの店でもっとも自信のあるお料理を食べていただきたいのだけど、よろしいかしら?」と尋ねてきたので、僕は「楽しみにしているよ」と言った。なつこさんは、僕とレイコさんに、お店のいろいろなことを説明してくれた。
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本日で、第2章「悲しみのワルツ-日常の中の僕-」が終わりました。明日からは、第3章「青い蝋燭」が始まります。「僕」は、これからどうなるのか、ぜひお楽しみ。
「僕」は、どこに行こうとしているのか、「僕」となつこさんの関係は?レイコさんは?ご期待ください。
著者よりのコメント:「プロローグ、第1章「赤い蝋燭」、第2章「悲しみのワルツ」と来て、いよいよ物語りは中盤に入ります。もっともっと、登場人物がこの舞台の上で自由に動きまわれるように、描いていきたいと思ってますので、引き続き、よろしくお願いします」
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レイコさんは、車の外に出て、「きれいですね」と言った。生暖かい風が吹いた。僕は、深呼吸をした。「ここは一人になって、考え事をしたいときに来る場所なんだ」と言った。レイコさんは、「じゃあ、ここは社長の隠れ家なんですね」と言った。「そうだね」と僕は答えた。
「石和裕美さんは、石和裕美さんなりに、20数年間生きてきた。でも、やっぱり悲しいですよね。これが決められていた運命なのか偶然なのかはわかりませんけれど、たった20数年間で、人生が終わってしまうなんて。もっと、これから楽しいことも、幸せに感じることだって、あったでしょうし。もっと、いろいろな所を旅したかっただろうし、もっとおいしいものを食べたかったでしょう。でも、それは、もうできないんです。そう思うと、とても悲しくなります。お焼香してたら、そう思ってしまいました。」と、レイコさんは言った。
「彼女は、僕と付き合ったことで、時間を無駄にしてしまっただろうか。」と、僕は言った。
「人生に、人間が生きる時間に無駄なものはありません。確かに、社長とお付き合いをして、辛いことや悲しいことはあったんでしょう。それで、あなたに対する憎しみの気持ちは少なからずあったのかもしれない。でも、楽しいことや嬉しいこともあったはずです。人生なんて、最後は、きっと50対50なんじゃないですか。」と、レイコさんは言った。
「それにしても、彼女の人生は短すぎた。もっと、彼女は生きるべきだった。」と、僕は言った。
「いつまでも留まっていてはだめなんです。私たちは、石和裕美さんから解放されなくちゃいけないんです。彼女に縛られるのは、今日までにして、明日からは、またいつもの毎日に戻りましょう。」と、レイコさんは髪を耳にかけながら言った。
「そうしよう」と、僕は同意した。
僕は、横浜でレイコさんと軽い食事をして、レイコさんを広尾の自宅まで送り、僕も自分の部屋に戻った。昨日の残りのワインを飲み、酔いに誘われるように、熟睡した。この二日間、ろくに寝ていなかったので、その睡眠不足も手伝って、夢も見ないほど、深い眠りについた。
翌朝、起きると、もう9時を過ぎていて、シャワーを浴びて、出掛けた。虎ノ門の駅の近くにある行き着けの古い喫茶店で、いつものようにモーニングを注文し、日本経済新聞を読みながら、コーヒーのおかわりを注文した。喫茶店を出た後、そのまま事務所に行くと、レイコさんがメールを打っていた。レイコさんの脇には、喪服がかけられていた。
「あれ、なんで喪服?」と僕が聞くと、「だって、お通夜の前日に泊まるほどの友人が亡くなったのに、告別式に行かないなんて変でしょ」とレイコさんは言った。「そりゃ、そうだ」と、僕は笑った。そして、僕は日常の生活のリズムに再び戻ったのであった。
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午後3時過ぎ、レイコさんが喪服姿で事務所にやってきた。「遅くなってすみません。社長の言葉に甘えて、帰ってから一眠りしてしまいました」と、謝った。僕は、「気にしないでいいよ。今日は夕方前に来ればいいよと言ったんだから、まだ早い方だよ」と笑った。そして、なつこさんが来たこと、彼女が転職をしたことをレイコさんに話した。レイコさんは、「じゃあ、早速、今夜行ってみましょうよ。私も会いたいわ、なつこさんに」と言った。僕は、「今夜行くのかい?それは、何が何でも早急すぎないかい?」と言った。レイコさんは、「そう思うのは、なつこさんのことが気になるからでしょ。タイミングを逃したら、後悔しますよ。恋愛は、駆け引きなんですから。」と笑った。僕は、「君の言っていることが理解できなくて、困っちゃうよ」と言った。レイコさんは、「恥ずかしがっちゃって。社長もシャイなところがあるんですねぇ」と言い、お得意の「うふふ」という笑いをした。
僕たちは、夕方の5時過ぎに、事務所を出た。霞が関の駅から丸の内線に乗り、新大塚で下りて、石和裕美の実家の近くのお寺に向かった。ちょうど、お通夜が始まる頃で、石和裕美の友人や知人、たぶんご近所に住むお爺さんやお婆さんが列を作っていた。僕は、会社名でお香典を包み、記帳した。しかし、やはり僕はお焼香するべきではないと思った。そこで、お焼香は、レイコさんに任せ、寺の外から祭壇に向かって手を合わせ、冥福を祈ることにした。
レイコさんが、お焼香を済ませて、戻ってきた。レイコさんは、無言だった。僕もレイコさんに、話しかけなかった。そして、そのまま駅に向かって、歩き始めた。そのうち、レイコさんが、「少し気分転換に、夜景でも見に行きませんか?」と言った。僕は、「うん」と答えた。
僕たちは、丸の内線で池袋まで行き、山手線で渋谷に行き、東急田園都市線で三軒茶屋まで戻った。そして、僕の車に乗り、恵比寿、三田を抜けて、湾岸沿いに出た。そこで、高速道路に乗り、横浜に向かった。
僕はみなとみらいの夜景が海の向こうに見える埠頭に車を止めた。
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「ありがとう。実は、私が転職することを決意させたのは、あなたの言葉でもあるの。前に、あなたと一緒に仕事をしたとき、あなたは、私に「君はもっと自由にいるべきだ。もっと君の理想を追求するべきだ。そして、それを実現するべきなんだ」って、言ってくれた。それが、私にとっては、励みになったの。あなたと青山で食事をしたとき、実は、すでに私はヘッドハンティングの誘いを受けていて迷っていたの。そのとき、あなたが私にそれを言ってくれて、私は決意したの。もっと、自分を試してみようって」と、なつこさんは言った。
「わかるよ。才能を持っている人間というのは、より高いところで、挑戦をするべきなんだ。人間はいつも成長するんだから、現状維持というのは、実は後退なんだ。君は、現状に留まっているべきではない。君は、前進するべきなんだ。」と、僕は答えた。
「応援してくれる?」
「もちろん。」
「一度、お店にお食事に来て。レイコさんと一緒に。お店で一番おいしい料理をご馳走するわ」と言って、お店の住所と電話番号、そして地図が書かれた紙を僕に渡した。
「お客さんとして行くよ。そして、僕は、君が最も自信を持つアレンジを注文する。そのとき、僕と君との勝負なんだ。手加減はしないよ。だから、お客さんとして行く。」
「ありがとう。うれしいわ」
「レイコさんとも会いたいし、また来てもいいかしら」
「いいよ。」
「ありがとう。私の電話番号を置いていくわ。前に教えたのは、前の会社の仕事用の電話だから。時々、あなたの声が聞きたくなるかもしれないから、そのときは電話してもいい?」
「いいよ。君が電話したいときに、いつでも電話をかけてくるといい。」と言って、僕は僕の電話番号を教えた。
「ありがとう」と彼女は言った。
そして、なつこさんは、ペコリと頭を下げて、ドアを出て行った。ドアは丁寧に閉められた。僕は、また、ソファーに埋もれて、本を読み始めた。
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レイコさんは、ラッシュアワーが終わる頃に、僕の部屋を出て、自宅に戻った。レイコさんには、夕方前に事務所に来ればいいと言った。僕は、もう一眠りして、昼すぎに事務所に向かった。
昼過ぎに到着した僕の事務所は、文字通りガラーンとしていた。この二日間に起きたこととは、全く関係のない日常の空間だった。僕は、ソファーに埋もれて、お気に入りの小説を読み出した。僕は、こう見えても本をたくさん読む方で、昔、図書館の受付のアルバイトをしていたぐらいだった。大学生の時、僕は、僕の住む街の区立図書館で夏の間、アルバイトをしていた。特に時給が良かったわけではなかったが、本の側にいることに、至福を感じていたのだった。
最近、買った本を読んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。僕は、「どうぞ」とドアの向こうに聞こえるように言った。ドアを開けて入っていたのは、なつこさんだった。
「こんにちは。」と、なつこさんは言った。
僕は、読んでいた本のページを開いたまま裏返しにして、テーブルの上に置いた。
「あいかわらず、暇そうね。レイコさんは、今日はお休みなの?」と、なつこさんは言った。
「まあ、うちは季節労働だからね。忙しいときと暇なときが交互にやってくる。実は、この2・3日にいろいろとあって、今日は、開店休業状態なんですよ」と言った。
なつこさんは、「実は、ご挨拶に来たの。あなたには、いつもいろいろとお世話になっているし。私、会社を退職することにしたの」と言った。
僕は、「会社を退職されるの?」と、聞きなおした。
「そう。こんど、あるレストランから、コーディネーターとして来ないかと誘われて。都会に幻想空間を作るようなレストランを作るためには、私が必要だって、そのオーナーに言われて、私もやってみようかなと思って」と、なつこさんは言った。
「うん。それはいい。君は、広告会社で、会社に縛られているには、もったいないほどの能力と魅力とセンスを持っている。もっと、君は自由に発想をして、表現をするべきなんだ」と、僕は言った。
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7時頃になって、レイコさんは寝室から出てきた。僕は、コーヒーを入れ、食パンを焼き、スクランブルエッグを作っていた。「おはようございます。いい匂いね」と、レイコさんは言った。
「おはよう。今日は、会社を昼からにしよう。君も家に戻って、シャワーをあびて、着替えてきた方がいい」と言いながら、彼女にコーヒーを差し出した。
「ありがとうございます。喪服も持ってこないといけませんからね。社長は、お通夜と告別式はどうなさいますか?」と、レイコさんは眠そうな顔で尋ねた。
「元の恋人がお通夜と告別式に出席するのって、どうなんだろうね」と、笑った。
「微妙なところですよね。石和裕美さんが、元の恋人にご焼香されて喜ぶかと言えば、そうとは限らないし。家族的にも周りの友人的にも、受け止め方はいろいろでしょうから。」と言った。
「レイコさんなら、どう思う?」と、僕は聞いた。
レイコさんは、「それは家族や友人の立場でですか?それとも死んだ元恋人?」
「うん。君が石和裕美の立場だったら、どう思う?周りの家族や友人にどう受け止められたって、僕はいいんだ。ただ、石和裕美が天国で嫌な気持ちになるんなら、彼女をこれ以上、傷つけたくない。でも、彼女が喜ぶなら、喜ぶことをしてあげたい」
「難しいですね。ただ、別れ方にもよるでしょうし。憎しみとかは、「死」で、全てご精算というわけにはいかないでしょうしね。彼女の本音がわからないから、私にはなんとも言えませんが、一応、会社に連絡があったことだし、個人的な関係とは別にして、会社の社長としてお通夜にご焼香したら良いんじゃないですか?」と、レイコさんは、かなり悩みながら、そう答えた。
「じゃあ、そうすることにするよ。レイコさんはどうする?」と尋ねた。
「私は、確かに、昼食をご一緒したりと知らない仲ではないので、社長と一緒にお通夜には出ようと思いますわ。でも、告別式までは行きません。」
「じゃあ、今夜、一緒にお通夜に出ることにしよう」と、僕は言った。
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2時30分頃、レイコさんは、僕のベッドにもぐりこんだ。彼女は、最初、ソファーに寝ると聞かなかったが、僕は、女の子をソファーに寝かせるわけにはいかない、確かにきれいとは言い難いベッドだけど、僕のベッドで寝てもらいたい、と、説得をした。僕は、ソファーのクッションを枕に薄い掛け布団をかけて、ソファーの上に寝た。
僕は、ソファーの上で寝付けなかった。頭の中で、昨夜の夢のこと、そして今日起きたことの数々が一斉に溢れていたのである。まずは、整理をしなければいけない、と、僕は思った。まずは、整理をしなければいけない、何が現実で、何が夢なのか、それぞれの事象はどのように連関しているのか、因果関係はどのようになっているのか、その原因は何で、僕はどこに行こうとしているのか。
そう、僕はどこに行こうとしているのだろうか。これは、僕だけではなく、人間そのものの永遠の課題なのではないかと思った。僕たちは、何のために生まれてくるのだろうか。そして、こうして存在する理由は何なのか、そして、人間は、どこに行こうとしているのか。これは、人類史上、僕たちが常に問われている課題なのではないだろうか。
それに答えようとして、様々な科学が発達し、哲学や思想が生まれた。しかし、僕たちは、誰一人も完全な答えには辿りつけていない。もし、誰かが全ての答えを説明することができるようになったら、僕たちはどうなってしまうんだろうか。
レイコさんは、車の中で僕に言った。「私たちが知らないもっと大きな力が働くことってあると思うわ」と。僕にとって、全てがわからなかった。理解の範疇を超えていた。いま、僕がわかっていて、理解できることは、石和裕美が死んだという事実、そして、僕には大きな欠落があるという事実だけであった。
やがて、空が明るみだし、朝がやってこようとした。
この問題を解くには、もっとたくさんのヒントがいる。そのためには、もう一度、ユミに会う必要があるんだろうと思った。そして、ユミと僕を結ぶ唯一の接点は、新宿のあの蝋燭屋である。
朝がやってきたとき、僕は、もう一度、あの蝋燭屋に行くことを決意した。
蝋燭屋の店主は言った。「君がここに来ることはわかっていたんだよ」
「所詮、運命なんて決められているんだ。偶然なんてない。ただあるのは、必然だ。」
僕は、あの蝋燭屋に行かなければいけないのだ。
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レイコさんと僕は、僕の部屋で、石和裕美の追悼式を二人だけで行った。いや、二人で行ったというよりは、僕の追悼式にレイコさんが付き合ってくれたというのが、正確なのかもしれない。しかし、レイコさんは、そんなことを思いもさせないほど、レイコさんは一緒になって、弔いをしてくれたのだった。
僕とレイコさんの追悼式は、モーツァルトのCDをケースから引きずり出して、モーツァルトの「ミサ曲 ハ短調 K.427:キリエ」、「レクイエム K.626 イントロイトゥス」、「レクイエム K.626 ラクリモザ」を流した。僕たちは、車の中で相談した通り、石和裕美が好きだったワインを飲むことにした。僕は1955年物のシャルム・シャンベルタンを開けた。ワイングラスは3つ出して、僕とレイコさんと、そして石和裕美のために、僕はワインをグラスに注いだ。そして、冷蔵庫から最高級のチーズを取り出し、それを肴にした。
レイコさんは、せっかくだから、ピザも食べましょう、と言い、24時間いつでも宅配をしてくれるピザ屋さんに、ピザを注文した。ぼくはベーコンとトマトのピザを、レイコさんはソーセージとアンチョビのピザを注文した。
僕たちは、夜中の2時過ぎまで、ピザとチーズをつまみながら、ワインを楽しんだ。僕たちの間に、石和裕美についての話題は持ち上がらなかった。僕には別れた恋人のことについて、何かを語る資格はないだろうし、冷静にしかも客観的に解説できるほど、偉い人間ではなかった。レイコさんも、そのことはわかっていて、僕に何も尋ねなかったし、彼女も、石和裕美とのことは何も語ろうとはしなかった。僕たちは、CDから流れてくる音楽に耳を傾け、静かにワインとピザとチーズを楽しんだ。それが、僕なりのそして僕とレイコさんなりの石和裕美へのレクイエムなのだ。
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「夢の中で、裕美さんは、あなたを解放してあげると言ったんでしょう。それは、彼女のせめてものあなたに対する優しさを最後の力で伝えたかったのかもしれない。「私が死んだら、あなたは一生、私を失ったというメランコリーに縛られてしまう。私の死によって、メランコリーを昇華させるきっかけをあなたは失ってしまう。だから、私は少なくともきっかけをあなたに与える必要がある」と、無意識の中の深層の中で、彼女が感じたとしたのであれば、それが信号として、あなたに送られて、ユミという記号なり触媒を通じて、あなたはそのメッセージを受信したとも考えられる。非科学的な現象かもしれないけれど、人間の意識や意思というのは、原子と原子のぶつかり合いから生じる信号であると考えれば、説明がつかないわけではない。その信号がどの程度、電波のように飛んでいくのかとか、そういうことはわからないわけだから」と、レイコさんは言った。
僕は、「その上、ユミは僕に欠落部分があることを示唆した」と言った。
レイコさんは、「私は、あなたがその夢に縛られることはいけない、縛られるべきではない、と思うけど、また、それが裕美さんから届いたメッセージなのかあなたの深層心理があなた自身に問いかけたメッセージなのかはわからないけれど、私は裕美さんから、あなたには大きな欠落があるということを聞いていたわ。そのとき聞いたことと、大まかには一致しているの。だから、単純にただの夢であるとは、言い切れないの」と言った。
車は、やがて横浜町田インターを通過した。時計を見ると、23時をいくらか過ぎていた。
「レイコさん、きっとぎりぎりだ」と言った。「魔法が切れるまで、あと一時間もないんだけど、それまでに広尾の家までに着けるかぎりぎりだ」と言った。レイコさんは、携帯電話を取り出し、おもむろに電話をかけ始めた。電話のコールは5回程度で、電話の向こうでは女性の声がするのが、かすかに聞こえた。
「もしもし、あ、お母さん?レイコですけれど、実は今夜、私の友人が亡くなって、そのことで、いろいろとお手伝いをしてあげたいと思うの。だから、今夜は帰れそうもないんだけど。お通夜?お通夜は明日の夜。告別式はあさって。喪服?うん、大丈夫。明日の朝に出勤して、社長に相談して、少し勤務を緩やかにしてもらうから。また連絡するわ」と言って、電話を切った。
僕は、「なんで?」と言った。レイコさんは、「午前0時までの魔法は、なんと明日の朝まで延長されちゃいました。うふふ。」と笑った。僕は、「いいの?」と聞いた。レイコさんは、「だめよ」と答えた。「ただ、一緒にいるだけ。そして、あなたと一緒に、今夜は裕美さんを偲ぶの。裕美さんが好きだったワインを買って、そしてチーズをつまみながら。」と言った。僕は、「ありがとう」と言った。
「今夜、私はあなたと一緒にいるべきだと思ったの。それは、あなたのためでもあり、きっと私のためでもある。言っておきますけど、同情ではないのよ。だから、あなたとは間違っても寝ないから安心してくださいね」
「ありがとう。君は僕にとって、最高の友人でありパートナーなんだと感じている。確かに、そう感じているんだ。僕は誰かの胸に飛び込んで、誰かと寝ることで、この問題を非生産的に解決してしまおうとするかもしれない。むしろ、これまでは、そうやって解決してきた。ただ、これは、問題から逃げているだけなんだ。でも、その気持ちは、いまの君の言葉で、かなり消え去った。僕は僕なりに、この問題と向き合おうと思う。だから、今夜は、最高級のチーズを肴に1955年物のシャルム・シャンベルタンを開けることにしよう」と、僕は、車の運転に注意しながら、力強く言った。
レイコさんは、「そうね」と微笑んだ。
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帰り道の車の中では、僕とレイコさんの間には、会話がほとんどなかった。お互いに気を遣っても無理矢理話をしても仕方がないし、無理矢理黙っているということではなかった。ほとんど自然な形で、僕たちはそれぞれ、考え事をしていた。車の中では、FMラジオのDJが陽気な口調で、洋楽の曲を紹介していた。流れてきた曲は、少し古いカントリーミュージックであった。伊豆高原を抜ける頃に、その番組は終わり、また新しいDJが陽気に番組を進めていた。僕もレイコさんも特にラジオのチューナーを動かすことはせず、ただ、音、もう音楽ではなく、生活音と同じレベルの音としてしか認識していなかった。いや、認識すらしていなかったかもしれない。
伊東に差し掛かる頃に、僕は昨夜のことをレイコさんに話始めた。
「ねえ、レイコさん。もしかすると、この話をすると、僕の気がおかしくなったと心配するかもしれないけれど、誰かに話さなければいけない気がするんだけど、いいかな?」と、言った。レイコさんは、「もちろん」と言った。そして、僕は車を運転しながら、昨夜の夢の出来事、記号としてのユミのこと、そのユミが僕に告げたこと、全てをレイコさんに話した。
それを聞いたレイコさんは、「基本的に私は非科学的なことは、あまり信じないのだけど」と言い、「でもね、科学や人間の想像が及びつかないような現象というのは、確かにあると思うの。人間が全知全能だっていうのは、人間の過信であり、大きな間違いよ。科学の力で全てが説明できるなんて、私は思えない。科学の発展で、世の中で起こることの多くは論理的に説明が可能になったことは事実だわ。でも、それが全てではないの。私たちが知らないもっと大きな力が働くことってあると思うわ」と続けた。僕は、「うん。わかるよ。」と言った。レイコさんは、「可能性として、もしかすると昨夜の裕美さんの交通事故とそれによる裕美さんの死、それと昨夜あなたが見た夢とは、どこかの部分で連関しているかもしれないわ。それは可能性としては、棄却できない。例えば、虫の知らせとかいうことがあるじゃない。また、動物なんかもほんの先の未来に起きることが予知できるかもしれないと言われている。そう、なまずとかは地震との関係性を調べるために実験され、観察されている」と言った。僕は、「毎日観察されているなまずは息がつまるだろうね」と反応した。レイコさんは、「でも、そのお陰で、少なからずエサが食べられなかったり、突然の気候の変化で死ぬことはないわ。人間が大事にしてくれるから」と言った。
「確かに、なまずにとっては、そっちの方が幸せかもね」と、僕は答えた。
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「レイコさん、ありがとう。」と、僕はレイコさんにお礼を言った。レイコさんは、「とても悲しいわね」と言った。石和裕美のことをレイコさんも知っていた。時々、レイコさんは事務所に遊びに来ていたし、たまに裕美はレイコさんとも仲良く、ランチを食べに行っていた。裕美が僕の子供を妊娠したとき、レイコさんは僕たちを祝福してくれて、いろいろと出産準備のための情報を必要以上に調べて教えてくれた。そして、裕美が流産したとき、最初に裕美の側にいたのは、レイコさんで、その後もレイコさんは裕美の相談相手になっていた。レイコさんは、僕には直接的には話さなかったが、裕美が僕から離れた後も、一定期間は付き合いがあったようだった。つまり、元々、僕を通じての人間関係が、いつのまにか僕を通じることなく、レイコさんと裕美の間には友人関係ができあがっていたのである。少なくともある時点までは。なぜ、その時点で、二人の友人関係が疎遠になったのかは、僕も知らないし、レイコさんも話さなかった。
「お通夜は明日の夜にご自宅の近くのお寺で、告別式は翌日の午前11時から同じお寺で行われるそうよ。社長はどうしますか?」と、レイコさんは、半分は友人として、半分は事務所の社員として、僕に尋ねた。「もし、今でも石和裕美の恋人であれば、僕は世界で最も彼女の死を悲しめる権利があるんだろう。そして、彼女が安らかに旅立つまで、ずっと彼女の手を握り、その死を悼むつもりだ。でも、僕はもう彼女の恋人ではないんだよ。彼女の死は悲しいけれども、彼女の横で彼女を供養する権利がないんだ。だから、僕は僕なりにいま、彼女の死を悼み、さようならを言ったんだ」
レイコさんは、「そうね。あなたにとって、一番悲しいことね。」と言った。「でも、彼女はきっとあなたが悲しむことを望んではいないわ。あなたにはあなた自身が幸せになる権利がある。だから、彼女は自分の死があなたを苦しめることを最も嫌がるはずだと思うの」と言った。僕は「わかるよ」と答えた。「私は、自分自身のために幸せになることが、彼女への最大の供養になると思うの。お通夜や告別式は形式的なものでしかない。必要なのは、あなた自身が幸せになること」と言った。僕は、「そうだね」と小さく頷いた。
僕はふと時計を見ると、8時30分を回っていた。「もうこんな時間だ。帰らなきゃ。魔法が解けてしまう」と、少し微笑みながら言った。レイコさんは、「無理しなくていいのよ」と言った。僕は「えっ?」と聞き返した。レイコさんは、「無理しなくていいの。悲しいときは悲しめばいいの。辛いときは辛いと言ってもいいの。あなたはあなたらしく、誰に遠慮することなく、あなたの気持ちを表現すればいいんだろうと思う。少なくとも今日は許されるわ」
僕は、「ありがとう。今日はいろいろなことがあり過ぎた。いま、僕がすべきことは、彼女の死を悲しんで、ここに立ち尽くすことではなくて、まずは東京に戻ることなんだろうと思う。その後のことは東京に戻ったら考えよう。君はそれでもいいかい?」と尋ねた。レイコさんは、「もちろん」と言った。
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「石和裕美が死んだ」
僕は、機械的に、その単語のつながりを小さな声で復唱した。復唱した後、僕は宇宙に身を投げ出されたような無重力な感じで、自分の意識の中をただ彷徨った。僕は、僕自身の判断能力を全て失っていた。そして、ただ、茫然自失とその場に立ち尽くすことしかできなかった。正確に言えば、立ち尽くすことさえもできなかった。夜の闇の中で、僕の目の前には、さらに深い闇が訪れた。そして、これまで経験したこともない不気味なほどの静寂が、僕を支配した。
「石和裕美さんは、昨日、交通事故にあって、今日の午前中に息を引き取られたそうです」と、レイコさんは、呆然としている僕に少しでも多く理解できるように、解説をするように、僕に告げた。僕は、レイコさんの言葉は、ただ機械的に耳に入ってくるだけであった。それは聞き流しのレコードから聞こえてくるクラシックのメロディと同じで、自然と僕の耳に入ってきて、とくに僕の意識には残ることなく、そのまま、片方の耳から出て行くだけであった。
「社長、東京に戻りますか?」と、レイコさんが言った。僕を包む静寂と深い闇の中に、一筋の光が射し込んでくるかの如く、彼女の言葉が、ようやく僕の意識に届いた。ただ、まだ頭の中の言語を作り出す機能は、止まったままであり、言葉を返すことはできずに、頷くこともできなかった。
現実の世界の時間として、たぶん、5分間は少なくとも経過していた。その5分間、僕とレイコさんの間には、何の会話もなく、ただ静かに時間が経過するだけであった。この時間は、とても長く感じた。5分が過ぎた後、僕の思考回路は徐々に回復してきた。
「ねえ、レイコさん。この打ち上げ花火を石和裕美さんの供養のために、打ち上げたいのだけど、いいかな」と、僕は静かに尋ねた。レイコさんは、「あなたがそうしたいのであれば、私は何も反対しないわ。」と答えた。僕は、「ありがとう」と言って、白い砂浜に落としてしまったライターを拾い、打ち上げ花火をセットして、導火線に火を付けた。
花火は、ジリジリと導火線が焼けていく音の後、一瞬、全ての音が失われ、そして、大きな音とともに打ち上がった。それも一発ではなく、何発も連続して打ちあがり、夜の闇に瞬間的に明かりを点した。
レイコさんは、花火を見上げて「きれい」と言った。僕は、「さようなら」と、つぶやいた。そして、全ての花火が打ちあがった後、再び、僕とレイコさんは、夜の闇と静寂に包まれた。
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次第に、僕らは夜の闇に包まれ始めた。薄暗く、そして全ての存在を覆い隠すような夜の闇。海に入っていたサーファーたちも、徐々に引き上げていった。僕は、以前に花火大会で道路に座り込むために買ったビニールシートを車の中から持ってきて、レイコさんと並んで座って、生暖かな風と潮の匂いを感じていた。レイコさんは、何も言わず、ただ周囲の環境と同化しつつあった。僕は、僕で昨夜の夢の意味を今一度、考え込んでいた。
夜の闇が本格化し、誰が見ても夜になったことが否定できないぐらい夜になった。夜はなんで「夜」という名前が付いたのであろう。それが、記号として、形式的に呼ばれているとしても、なぜ、この状態が英語で言えばnightで、日本語では夜なんだろうと、ふと、思った。
「ねえ、レイコさん。なんでだと思う?」と、僕はつい聞いてみた。レイコさんなら、何かしらの答えを返してくれるのではないかと思った。レイコさんは、突然の質問、さらに言えば、何を質問されたのかもわからない状態だったわけで、不思議そうな顔で僕を見ていた。
「夜はなんで夜なんだろう。なんで、記号的にまたは形式的にも「夜」なんていう名前が付いたんだろうと、ふと、思ったんだ。レイコさんは、なんでだと思う?」
「「夜」という漢字が、なんで「や」と「よ」と「よる」と発音されるようになったのかは、きっと古代の日本人とか平安京の貴族の人に聞いてみないとわからないけど、漢字としては、象形文字的に、人が屋根の下にいるような感じだから、きっと、そのへんが理由なんじゃないかしら。でも、英語で、なんでnightというのか、これはアダムとイブに聞いてみようかしら」と言った。
「やっぱり、レイコさんは、頭がいいね。それに社会性もある。そして、耳の形がとてもかわいい。」と、僕は言った。すると、レイコさんは、「かわいいのは耳だけですか?」と、少し頬を膨らませながら言ったので、「僕はレイコさんの目も好きだよ。そして、その膨らんだほっぺも、もちろん好きだ。ただ、余計なことを一言付け加えておくと、好きというのは、Likeでということを断っておこうと思う」と、僕は返答した。レイコさんは、「髪質とかも自慢なんですけどね」と言った。そして、「あ、そうだ。社長。さきほどのお楽しみの正体を教えましょう。鍵を貸してください」と言うので、僕はポケットの中から鍵を取り出し、彼女に渡した。
彼女は、小走りに車に向かって、また小走りに両手にビニール袋を持って、戻ってきた。「社長、なんだと思います?これ」と、意地悪く聞いてきた。中身は花火だということはわかった。「少なくとも、どこかの銀行で強盗をしてきた札束には見えないな」と答えた。彼女は、「うふふ」と笑って、花火を取り出し始めた。「ちゃんと、ライターも買ってきましたので」と、ポケットライターも袋から取り出した。僕は、「準備がとてもいいね。レイコさんは、几帳面で有能だし、仕事もできるし、髪質がとっても素晴らしい」と、冗談を込めて言った。レイコさんは、「今さら遅いですよ」と言って、僕にライターを渡した。
いくつかの打ち上げ花火をして、手持ち花火をした。僕は、大きな打ち上げ花火を選んだ。本日の主役を飾るような大きな派手な花火だった。それに、波打ち際で火を付けようとしたとき、レイコさんの携帯電話がなった。
レイコさんは、「なんなのよ。こんなときに。でも、仕事の電話かもしれませんね」と、携帯電話にでた。「もしもし、あ、いつもお世話になっております」、やはり事務所にかかってきた電話が転送されてきたようだった。僕は、花火に火を付けるのを待った。
そのとき、レイコさんは、「えっ!」と驚きの声をあげ、そして僕の方を見ながらも唖然として、言葉が数秒間続かなかった。僕が様子を伺っていると、やがて、レイコさんは正気を取り戻して、自分の持っている花火を砂浜に置き、肩掛けの鞄からペンと手帳を取り出して、住所や電話番号をメモし始めた。僕は、仕事上で何かトラブルがあったのではないかと、いつでも電話を代われるように、レイコさんの側に近づいた。
レイコさんが、メモを取り終わると、電話の相手にお礼を言って、電話を切った。そして、僕に向かって言った。まだ、その電話の内容が信じられないというように、驚きを隠せない感じで、
「石和裕美さんが亡くなられたそうです」
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伊東から一時間近く走ると、やがて下田の港が見えてきた。下田の街は独特な感じがした。僕が向かっている砂浜は、下田の市街から石廊崎方向に向かって、少し走ったところがある。国道から、横のわき道に右折して、対向車が来たら、すれ違うのもなかなか大変そうな坂道を下った。そこには、白い砂浜と青い海が広がっていた。そして、夕暮れ時の太陽が、いまにも「今日も一日くたびれた」と言わんばかりの夕焼けをしていた。
レイコさんは、「わぁ、きれい。日本の海だと思えないわ」と、フロントガラスの向こうの景色に見とれて、早く車から降りたそうだった。僕は、砂浜の脇にある海の家の裏の駐車スペースに車を駐車した。
海には、何人かのサーファーが入っていて、大きな波に乗ろうとがんばっていた。
「ねえ、レイコさん。君のイメージは、こんなイメージ?」と聞いてみた。すると、レイコさんは、「ぴったりだわ。今日のお昼に、ゆで卵の殻を剥きながら、想像していた景色と同じ」と答えた。僕は、「レイコさんがゆで卵の殻を剥いている様子もなかなかかわいかった」と言った。レイコさんは、僕の言葉を受け流して、波打ち際の方に歩いていった。
「波にさらわれないように気をつけるんだよ」と、僕は、少し大きな声で言った。「大丈夫よ。子どもじゃないんだから」と、彼女は僕の方には振り返らずに叫んだ。レイコさんは、無邪気にはしゃぐ、世の中の汚れを何も知らない無垢な少女のように、波打ち際に寄せる波とじゃれあっていた。
僕は、この砂浜と海の全体像を、ゆっくりと見渡した。そうすると、なんとなく違和感がした。違和感というか、むしろ、僕の精神の奥の方で眠っている記憶が呼び覚まされたようなフラッシュバック。「デジャブ?」と、僕は無意識につぶやいた。遠い記憶ではなく、もっとも近い記憶で、この景色が僕の記憶を司る脳の機能、引き出しに、この景色が収納されているようであった。どの記憶であろうか。僕は、朝寝坊して、急いで外出の支度をするとき、たんすの引き出しを荒々しく開けて、着るものを引きずり出すような感覚で、僕は記憶を思い出そうとしていた。
10分間ぐらい、食事の後に、歯につまった牛筋にイライラするような感覚で、記憶が引き出せないことに対する不快感が僕を支配した。レイコさんは、波打ち際で波とじゃれあったり、砂と遊んだりしていた。その様子は、ビデオカメラで撮影されたものをテレビで見ているようなライブ感、つまり、客観的な視野で状況が目に入っていた。つまり、こちらは積極的に「受信」しているわけではなく、映像が一方的に送られている状態であった。
僕を包み込むように、夕日が僕を射した。温かく柔らかな陽射しが僕を何かに導くようであった。そのとき、この砂浜と海が、昨夜の僕の夢の憧憬であったことに気が付いた。ユミ、つまり記号としてのユミが、見知らぬ男性と消えていった砂浜。僕は、白い小屋の中に閉じこもったまま、外には出なかったが、窓の外に見えた憧憬と、いま、僕が立っているところから見える憧憬が同じであった。
夢の中では、ユミが存在し、彼女は波打ち際に歩いていった。現実では、レイコさんが波打ち際にいる。偶然とは思えないほど、奇妙に憧憬が一致していたのであった。
すると、僕が夢の中で存在していた白い小屋も近くにあるのだろうか。もし、存在するのであれば、そこで、昨夜の夢の意味がわかるかもしれない、と、僕は、周りを見回してみた。しかし、小屋らしい小屋は見当たらなかった。
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僕は、東名高速の東京インターから高速道路に乗り、厚木インターで小田原厚木道路に乗り換えた。車の中で、僕とレイコさんは、とりとめのない話、例えば、最近の仕事の話、仕事上でのつきあいのあった人の話、また最近の政治経済の動き、そして、今朝起きた事件の話など、特に話の先に目標があるわけではないが、そういった話を、笑ったり、少し真面目になったり、時には頬を膨らませながら、話をしていた。
レイコさんは、あまり自分のことを語りたがらない。レイコさんの過去は、履歴書に記載されている学歴ぐらいは知っている。あと、普通自動車免許と日商簿記2級、算盤1級の資格、それに情報処理検定に合格していて、漢字検定も1級、あとは歴史検定も1級だった。僕は、その履歴書を見た時、「時刻表検定とソムリエ試験は受験していないの?」と、冗談で聞いた。レイコさんは、「仕事に時刻表の知識とワインの知識が必要なんですか?この2つの資格は持っていないけど、色彩検定なら勉強しています」と、呆然と反応した。「OK。ユーモア資格もあるようで、合格」と、僕はかなりお気軽にレイコさんをアルバイトとして雇った。彼女は、ある意味で資格マニアだった。そして、それはフロックではなく、非常に優秀な女性であったのである。
しかし、レイコさんのことは、そのぐらいしか知らなかった。毎日、どんな生活をしているのか、彼女の好きな作家は誰で、どんな音楽を聴くのか。彼女は、そういうプライベートなことは、職場では話さなかったし、僕もあえて聞こうとはしなかった。逆に、彼女は僕のプライベートのことはよく知っていた。きっと、彼女は聞き上手なんだろうと思った。いつのまにか、彼女にいろいろなことを話している。話した後に、話したことを後悔することが多々あった。
でも、今日は、梅雨明けの気持ち良い陽射しと海の匂いに誘われて、いつもより少し多く、自分のことを話してくれた。家では、犬を飼っている。犬の種類はシベリアンハスキーで、とても賢いということ、最近、彼女の高校時代の友人が結婚して、その結婚式に行った話など。
道は比較的に空いていて、かなりスムーズに走っていた。熱海からは一般の国道になる。対向二車線道路なので、夏休みや連休などはかなり渋滞をする。だから、こうしてスムーズだと、本当に得した気分になる。伊東の道の駅で、休憩をすることにした。この道の駅には、温泉施設もあり、またヨットハーバーにも降りていける。ふと、石和裕美のことを思い出した。数年前、石和裕美と伊豆に来た時も、この道の駅で休憩をした。一緒に、肩を並べて、ヨットハーバーの脇を歩いた。そんな憧憬がにわかに思い出された。
レイコさんは、「早く行きましょう。私たちには時間がないわ。魔法が0時には解けてしまうのよ。」と言うと、助手席に素早く乗り込んだ。「そうだね。でも、その魔法は延長できるんじゃなかったっけ?」と、僕も運転席に乗り込みながら答えた。
「なるべくなら、魔法を延長しない方がいいに決まっているでしょう。」とレイコさんはシートベルトを締めながら言った。僕はエンジンをかけながら、「それはその通りだ。野球だって、サッカーだって、延長しないで、ちゃんとTV放映時間通りに終わった方がいい。」と言った。
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僕とレイコさんは、虎ノ門の駅から地下鉄銀座線に乗り、表参道の駅で半蔵門線に乗り換えて、僕の部屋のある三軒茶屋の駅に向かった。さすがに、レイコさんを僕の部屋にまで入れることができず、それはとっても散らかっていたからで、別の意味は特にない、近くのコーヒーショップで待っていてもらうことにした。
僕は、半そでのシャツと半ズボンに着替えた。そして、愛用のサングラスをかけ、気分は夏休みという感じであった。僕の車は、ホンダのシビックであった。これがスポーツカーであったり、外車であれば、僕の格好と見事にマッチするんだろうけども、僕はシビックの安定感が大好きだった。少しはスポーツタイプにしてあるのだけれど、シビックはシビックなりの素晴らしさを持っていて、それも大好きだった。
彼女の携帯電話に電話して、自宅近くの246号沿いの交差点に来てもらうことにした。待ち合わせの交差点で、僕は数分、彼女のことを待った。そうすると、レイコさんは、コンビニのビニール袋を両手に持って、こちらに歩いてきた。
「レイコさん、どうしたの?そんなに。」と、僕は、車のドア超しに聞いてみた。レイコさんは、「内緒です。後でのお楽しみ。うふふ。」と言って、僕にトランクを開けるように指示した。僕は、「ふーん。じゃあ、後で楽しむことにしよう」と言って、トランクを開けた。彼女は、そのビニール袋をトランクに押し込んだ。
レイコさんは、助手席に乗った。「ようこそ。僕の愛車に。僕の愛車の助手席には、女性しか座らせないんだよ。君が初めてだったかな?」と、僕は言った。レイコさんは、「また、くだらない嘘を。私は、知っているんですよ。この助手席に乗った人たちの遍歴を。私は社長のことは全て知っています。」と、少し頬を膨らませた。
「さて、どこに参りましょうか。レイコさん。今日は、レイコさんの行きたい所、どこにでも参りますよ」と、僕は、少し冷やかしながら言った。レイコさんは、「海が見たいわ。そして、大きな白い砂浜。社長のご予定が宜しいのなら、私も今夜は予定がないし、伊豆なんてどうかしら。」と、彼女は言った。
「伊豆でございますか。そして、きれいな白い砂浜。透き通る海。では、下田なんてどうでしょうかね。ちょっと遠いですけれど、僕も今夜も明日もあさっても特に予定はありませんしね。」実は、あさってには、ひとつ仕事の約束が入っている。それは、彼女も知っている。でも、今はレイコさんとのこのドライブを楽しむことに集中しよう。
「下田だと、ここからだいたい何時間ぐらいかかるのでしょうかね」と、彼女は尋ねてきた。「そうだね、僕のこれまでの経験上、3時間30分ぐらいあれば、到着すると思うよ。今、2時30分だから、6時には着くね。今は夏だから、日が落ちるまでは、少し時間があるだろう。レイコさんの家の門限は何時でしたっけ?」と、じいやが我がまま名お嬢様にお尋ねするように聞いた。「まあ、午前0時までに帰れれば、文句は言われないわね」と、彼女は言った。「午前0時のシンデレラ」と、僕はつぶやいた。
「私がシンデレラ?うふふ。そう、そうしたら、この車はさしずめ、カボチャの馬車かしら。」と、彼女は微笑みながら言った。僕は、「そうしたら、余裕を見て、7時30分に出れば、午前0時の鐘の音には間に合うかな。現地には、1時間30分ぐらいしかいられないし、もしかすると夕食も満足に食べられないかもしれないけど、それでもいい?」と、聞いた。「いいですわ。今日は、ドライブを楽しみたいの。そして、砂浜には1時間もいられれば満足ですわ。」と、彼女は答えた。「レイコさんのご自宅は確か広尾だったよね。まあ、なんとか0時の魔法が解ける前に帰れるでしょう。」と、僕は運転に注意しながら、言った。「でも、あまり無理なさらないでね。0時の魔法が切れても、電話をすれば、魔法は延長するという便利な魔法だから。」と、彼女は微笑を浮かべながら、移り行く窓の外の景色を眺めながら言った。「了解。」僕は、小さな声で答えた。
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「レイコさん、レイコさんの煎れてくれたお茶、最高だよ。僕の記憶だと、初めてレイコさんの煎れてくれたお茶を飲んだ気がするんだけど、どうだったかな」
と、僕は冗談半分に、彼女を冷やかしてみた。彼女は、少し頬をふくらませて、
「失礼ですね。何度か社長にお茶を煎れたことぐらいありますよ。でも、きっと数えるだけ。」と、彼女は、声をあげて笑った。彼女の明るさこそが、この事務所の花であり、彩りなんだと僕は思っている。レイコさんといると、僕は、何も着飾らず、自然な僕でいられる。そんな気がした。
「あっ、そういえば吉澤奈津子さんでしたっけ。この前、ご一緒にお仕事した電光堂の女性の方」と、彼女は笑うのを一時止めて、僕に尋ねてきた。
電光堂は、大手広告代理店で、うちの会社が、某商社の国際展示会の企画を手伝った。そのときの担当者が吉澤奈津子さんだった。
「あー、電光堂企画部の吉澤さんね。彼女がどうしたの?」と、僕は彼女に質問した。
「いや、彼女なんか、社長の好みだから、もしかすると、吉澤さんのことが好きなんじゃないのかなと思ってしまいまして」と、また、彼女は笑いだした。
僕は、彼女と一緒に笑うしかなかった。「あはは」と僕が笑えば、彼女は「うふふ」と笑う。否定でもなく、肯定でもない。僕は吉澤さんのことを魅力的な女性だと思っていたし、もっと一緒にいたい、会えるのであれば、もっと会いたいと思っていた。しかし、それが恋愛感情なのかどうか、僕にはわからなかった。だから、彼女の指摘に対する答えは、いまのところ、はっきりしたものはなくて、ただ「あはは」と笑うしかなかった。彼女は、「図星でしょう」と言うように、僕の「あはは」に彼女は「うふふ」と答えた。
笑っている間に、僕はふと現実に引き戻され、「うちの会社、大丈夫かな」と、僕がぼそっと言った。「突然、どうしたんですか?」と、彼女は不思議そうに尋ねた。
「だって、普通、仕事中に恋愛話なんかするか?それって、極めて暇だっていうことだろう?レイコさんだって、本当は仕事がないんじゃないの?」と、僕は真面目な顔をして言った。
「今頃、心配しているんですか?私なんかもう2年前から心配をしていて、今では、心配を通り越して、自然体ですよ。仕事がないときは、仕方がないじゃないですか。急がば回れ、果報は寝て待て、待てば海路の日和あり。ともかく待つんです」と、彼女は自信を持って言った。
「レイコさんは、もう悟りを開いてしまったようだね」と、僕はレイコさんのことを感心した。すると、レイコさんは、「この2年間、社長の下で、働いていたら、いつのまにか悟りを開いてしまったようです。」と、言って、また「うふふ」と笑い出した。
その日は結局、僕もレイコさんも、何も仕事がなかった。お昼を食べながら、レイコさんは、ある提案をした。「夕方まで、せっかくだから、ドライブでもしましょう。電話は私の携帯に転送をしておけば、いつでも出られるし、特に面会の約束もないし。海でも見に行きたいです。私は、今日は休暇扱いで良いですから。」
僕は、「つまり、今日はもう会社をお休みにするということだね。確かに、たぶん、このまま、この部屋にいても何も変化はなさそうだし、気分転換も仕事の内か。先月はがんばったし、今日は休みにしよう。グッドアイディアだ。」と言った。僕にとっては、確実に、この部屋にいるより、気が紛れる。「じゃあ、僕は車を自宅に取りに帰ることにしよう。レイコさんはどうする?ここで待っている?」
レイコさんは、「たぶん、虎ノ門に寄ると、渋滞で大変だから、私も社長の家まで行きます。」と言った。
こうして、僕はレイコさんと奇妙なドライブに出ることになった。
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僕の事務所は、虎ノ門病院の近くにある古いオフィスビルの一室に入っている。たぶん地下鉄では虎ノ門駅の方がはるかに近いだろう。しかし、健康のために、一駅前の溜池山王で下りて、歩くことにしている。部屋の中は、殺風景で、きっと植物などを置いたら、少しは和やかな感じになるであろうが、維持費をケチって置いていない。たまに、レイコさんが気まぐれに買ってくる花束を、花瓶に入れて飾っているぐらいである。
部屋の中には、僕の机とレイコさんの机、それにソファとソファ用の足の短いテーブルが置いてある。それに本棚と書類用のロッカーである。本棚とロッカーも木目調で揃えれば、少しは色が鮮やかになるのであろうが、全て鉄製である。
これらのものは、レイコさんがまだアルバイト時代に一緒に買いに行った。レイコさんがアルバイトを始める前は、もっと何もない部屋だった。
レイコさんの勧めで、家具屋に行った。僕は、少しはレイコさんに格好良いところを見せようとして、少し高めの家具を買おうとした。そうすると、レイコさんは、「社長、もったいないですよ。うちの会社は貧乏なんだから、身分不相応です」と、逆に怒られてしまった。レイコさんとの関係は、一応、僕が社長で、雇い主のはずなのであるが、往々にして立場が逆転する。ほとんど、レイコさんが僕にお説教をする。
僕は、それだけレイコさんのことを信頼しているということだ。彼女の判断は、ほとんどの場合、常識的に考えて正解であった。最初は、こちらが教えているつもりが、いつのまにか、僕のほうが教わっているということが多々あった。
同じビルには、会計士事務所、弁護士事務所、政治家の事務所などが入っていた。きっと、何かトラブルに巻き込まれたときは、きっと頼りになると、一方的に信じている。そこで、時々、もらい物をおすそ分けしている。これも、レイコさんのアイディアだ。
僕は、どちらかというと、人間関係を作ることやつなげることは苦手で、人付き合いがなかなかできない。そこで、レイコさんが働き始めるまでは、僕は、たぶん、このビルの住人として認識されていなかったはずだ。しかし、レイコさんが働き始めてから、レイコさんがしばしば、近所づきあいをしてくれるようになっていた。だから、今では、僕も一応は、このビルの住人として認知され、エレベーターで会えば、声をかけてくれるし、時々、他の事務所の女性がレイコさんを尋ねてくるようになった。もしかすると、誰もがレイコさんを社長だと思っているかもしれないと、たまに不安になる。
午前中、僕には何も仕事がなかった。もし、仕事があれば、それに集中することができるので、今夜の夢、ユミのこと、そうしたことを何も考えずに済んだだろう。しかし、何も集中することがないわけで、つい、ユミのことを考えてしまっていた。
たぶん、レイコさんの目から見て、僕はかなり暇そうに、しかも虚ろな状態に見えたのだろう。レイコさんは、いつも煎れてくれたことがないお茶を、多分、初めてだと思うが、煎れてくれた。
「社長、大丈夫ですか?具合が悪いなら、今日は暇なんだから、帰って寝ててもいいんですよ。それとも、私の仕事を手伝ってくださってもいいんですけど」
と、お茶を差し出しながら、心配そうに言った。僕は、「ああ。すみません。なんか、ボッーとしちゃって」と答えた。
「もしかすると、また好きな人でもできたんですか?社長は恋愛すると、いつもそうだから」と、レイコさんは冷やかす感じで言った。
「うーん。それに近いかもね。なんだかはっきりしないんだけど、もやもやするんだよ」
僕はレイコさんには、何かと正直に話してしまう。レイコさんと知り合ってから、僕は何人かの女性と寝て、その後、一人の女性と付き合った。その一人が石和裕美である。石和裕美と別れた後も、何人かの女性と寝ている。実は、レイコさんは、そういったことまで、知っている。僕は自慢として、そういう話をしているのではなくて、レイコさんには何かといろいろな相談をしてしまうのであった。レイコさんは、つい相談をしてしまうそういう魅力に満ち溢れた人なのであった。
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コーヒーを飲み干して、ちゃんとごみを分別して捨て、コーヒーショップを出た。じめじめした厭らしい朝の生暖かさと強い日差しを感じた。確実に、日本は熱帯化している。でも、爽やかな暑さではなくて、悪いところは引き継いだまま、気候の状態は確実に悪化している。こんなことを考えては、今夜の夢のことを思い出す、という思考の悪循環に陥っていた。
会社に着いた。会社と言っても、従業員は2名ほどの小さな事務所である。僕とレイコさんという女性だけの事務所である。レイコさんは、僕よりも5つ年下で、大学院の修士課程を修了したばかりであった。僕は、レイコさんと一緒に、コンベンションコンサルタントをやっている。つまり、企業や団体の発表会なり会議を企画したり、準備作業についてコンサルティングをする。だから、仕事がないときは、全く暇だし、仕事があるときは、かなり忙しい。しかも、そういう会議や発表会は時期的にも重なることが多いので、いわゆる季節労働という感じだ。その他には、たまに企業の研修会で、「ロジスティクスとは何か」とか「会議企画・運営の方法」みたいなテーマで講演をしたり、原稿を書いたりということをしている。だから、うちの会社には、多くの社員を抱えておくことはできないのである。レイコさんも大学院修士課程在籍時代は、アルバイトであった。社員は僕一人だけ。レイコさんは、上場企業の総合職や有名シンクタンクの研究職の内定をもらっていたのだが、なぜか、全てを蹴ってしまった。僕は、「もったいない」と言って、理由を聞こうとしたが、レイコさんは何も教えてくれなかった。ただ、「社長、私を社員にしてください」としか言わなかった。言いたくないことを無理矢理言わせても仕方がないと思い、僕はそれ以上は聞かなかった。僕は、ふたつだけレイコさんに条件を出した。ひとつは、「この会社を一生の職場と思わないで、もし自分にとって、もっと良い会社があれば、悩まずに、転職すること」、もうひとつは、「博士課程に進むこと」であった。
レイコさんは、この条件を真摯に聞き入れてくれた。それなので、いま、レイコさんは、博士課程に在籍して、平日9時から17時までは、うちの会社の社員で、その他の時間は大学院生である。だから、会社員なのに、携帯電話は学割を利用、映画やカラオケ、ボーリングなども学割という、結構、お得な生活をしている。
8時50分になって、レイコさんが事務所にやってきた。レイコさんは、僕の顔を見て、非常に驚いていた。
「社長、今日の午前中、何かアポがありましたっけ?」
彼女は、非常に不思議そうに、僕の顔を眺めていた。
「僕が早く来ていたら、おかしい?」
僕は、冗談半分に、からかう気持ちで、聞き返した。
「いや、社長が午前中にアポがある時以外に、朝から出勤されるのが、珍しくて。いつも、裁量労働制だと言って、たいていは昼前じゃないですか。それでお昼を食べてからお仕事される。ひどいときは、昼過ぎても出勤されないで、午後になってようやくというときもあるじゃないですか。なんか、いま、私、狐につままれたようです。」
「そんなに、僕って、ひどかったか。言われてみて、客観的に考えると、それはひどいな」
「まあ、うちの会社は、繁忙期とそうでない時の差が、とてもありますので。繁忙期に、社長には一生懸命働いていただければ良いので。普段は、そんなに真面目でなくても良いんですのよ。いい加減なぐらいの方が、良いと思います。仕事がないときは、本当に仕事がないので、うちの会社は大丈夫なのか、心配してしまいますけども。」
「もしかすると、心配をかけてたりする?」と、僕は少し真面目に聞いてみた。
すると、彼女は、「大抵の場合において、心配をしておりますわ。」と、笑いながら言った。
「これは一本取られたね」と、僕も笑った。二人の笑い声が小さな事務所の中で溢れていた。
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僕は、ラッシュが嫌いだ。できることなら、満員の電車には乗らず、ゆったりと出勤したいものだと思っている。満員電車に乗ると、本当に骨が折れるのではないかというぐらい、強い圧力が身体にかかって、しかも酸欠状態になりかける。
そこで、僕は、特別な仕事の約束とか会議とかがない限りは、できるだけ、時間差通勤をするようにしている。まあ、朝が苦手というのも理由のひとつにあるわけだけれど。
今頃の時間であれば、いつもなら、もう一眠りをする。だいたい、ワイドショーが始まるぐらいの時間に起きて、「今日の占い」を見てから、家を出る。占いは、良いときは信じて、悪いときは信じないようにする。占いの結果が良かったとき、例えば、恋愛運。「今日は、好きな人から衝撃な告白があるよ」。簡単にこんな占いをされてしまうわけだが、「衝撃な告白」をされたことはない。最悪なのは、「好きな人」にすら会えなかったりする。だから、占いの結果が悪いときも、そんなに気にしないようにしている。
今日は、深夜に目が覚めてから、どうしても眠れなくて、いろいろと考え事をしてしまったので、頭が次第にクリアになってしまったからなのだけども、寝ることは諦めて、早めに会社に行くことにした。確かに家に閉じこもっているより、少しでも朝の空気を吸っていた方が良いかもしれない。
僕は三軒茶屋の駅に向かって、まだ夏の朝に感じる独特な生暖かい空気を感じながら歩き始めた。歩きながらも、そして電車に乗っていても、思い浮かぶのは、ユミの顔、ユミの言葉、そしてユミが去っていくときの姿であった。あれはなんだったんだろうか。意味がないと言えば、意味がない、ただの夢であるのだけれども、僕には、どこかに意味があるんじゃないかと、寝不足の頭を一生懸命かき混ぜた。でも、答えはいつまでも出なかった。ただ、僕はユミを失ったという喪失感と、裕美を傷つけ続けたことに対する罪悪感の2つが僕の胸を支配し続けるだけであった。
僕は、溜池山王の駅で降りて、僕の事務所があるビルに向かった。途中で、昨日の夜から何も食べていないことを思い出して、コーヒーショップに寄ることにした。僕は、「モーニング」というのが好きである。熱いコーヒーと、トーストと、ミニサラダ。朝刊を読みながら、この3点セットを食べる。そのことに、幸せを感じることができる。ただ、今日の気分は違っていて、何か甘いコーヒーを飲みたくなった。そこで、チェーン展開をしている有名な外資系のコーヒーショップで、甘いコーヒーと、菓子パンを食べることにした。注文したのは、アイスカフェモカ。ここに、山盛りのホイップクリームを乗せてもらった。米国で一時期暮らしていたとき、カフェモカにはいつも山盛りのホイップクリームが乗っていたが、日本では追加料金が必要だ。そのことに、少し憤りを感じながらも、ホイップクリームを味わいつつ、冷たいモカを愉しんだ。
カフェモカを飲みながら、僕は、今夜の夢が、もしかすると裕美との恋愛の喪の作業だったのではないかと思った。すでに石和裕美とは、数年前に別れているけれども、度々、彼女のことは思い出すことはあるし、会って話がしたいと思うことはあった。もっと言えば、いま、彼女と付き合っていればどうだろうかと、彼女との日々を懐かしむことはあった。これが未練だと言うのであれば、言い逃れはできないが、僕はこれを未練だと思っていない。自分なりには、前向きに恋愛をしているつもりだ。
ただ、心のどこかで恋愛に臆病になっていることはあった。しかし、それはある女性にあってから、臆病な気持ち以上にその人を好きだという感情を上回った。そんなときに、ユミが夢の中に現れた。そして、ユミは、僕を解放した。つまり、これは石和裕美とは関係なく、僕自身の中で石和裕美との恋愛に、遅からずけじめをつける作業を行ったんだと思った。そして、前向きに僕は進むことが出来る。僕がいま好きな女性と、これは相手の女性の気持ち次第ではあるけれども、恋愛をして、幸せになりたいと心から願った。
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僕は、ふと目が覚めた。部屋の中は暗くて、窓の外から高速道路のオレンジ色のテールランプの光が差込んでいた。見覚えのある風景。少し、理解するのに時間がかかったが、ここは、僕の部屋である。数秒間、いや体感的には数分間、僕はどこにいるのかがわからなかった。
喉がカラカラに渇いていて、まずは、ペットボトルのお茶を勢い良く飲んだ。そして、記憶を辿った。僕は、新宿を歩いていて、変なお店に立ち寄った。そこは、蝋燭がたくさんならんでいて、その店番をしていた老人が赤い蝋燭に火を灯した。その後の記憶が全くなく、どうして、いま、僕は自分の部屋に寝ているのかがわからない。
夢の中で、裕美が「ユミ」と名乗り、登場した。そして、僕にいろいろなことを伝えようとした。そして、彼女は見知らぬ男性と共に、去っていった。そのとき感じた喪失感が具体的に、今でも僕の胸の中に残っている。
何がなんだか、理解できなかった。そもそも、どこからが夢であったのだろうか。あの新宿のお店すら、夢なのだろうか。いろいろと考えているうちに、眠気がさめてしまった。近くの道をトラックが通ったらしく、トラックが走り去る音が響いた。
僕は、夜の空を何も考えずに眺めていた。何も考えていないというのは嘘である。夢の中で、ユミが言っていた言葉をひとつずつ思い出して、その意味を考えていた。やがて、空には明るみ始めて、朝が来た。また、一日が始まる。明けない夜はない。必ず、朝が来る。しかし、いまの僕の心境は、このまま夜が続いて、もう一度、夢の中で、ユミに出会い、そして、ユミが何を伝えたかったのか、それをもっと教えて欲しかった。
だけど、ユミは僕がいつのまにか僕自身の記憶によって、夢の中で作り出した幻想でしかない。つまり、ユミは裕美であって、裕美ではない。また、ユミは僕でもあって、僕ではない。そんな、複雑な存在なのである。もしかすると、僕の深層的な意識が、ユミという媒体を借りて、僕自身に何かを語りかけようと、何かしらのメッセージを伝えようとしたのかもしれない。その意味で、ユミは完全に裕美とは、別の存在なのである。それとも、裕美は、僕に何かを伝えたくて、それが科学的には説明が付かない超常的な力によって、ユミという媒体を通じて、僕にメッセージを送ったのであろうか。
いま、わかることは、夢の中のユミは、メッセージの媒体・媒介の役割を果たしていたということである。僕と僕、または僕と裕美とをつなぐメディアがユミであったのだ。
夜が完全に明けてくると、街の姿が大きく変わった。街というものは、その時々によって、被る仮面を変える。街も生きているのだろう。
僕は、ラッシュアワーの前に会社に行くことにした。
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「そろそろ、行かなくちゃ」
ユミは、腕時計を見ながら、そう言った。
周りを見ると、僕は、ある小さな家の中にいるようであった。いま、僕がいるのが畳の部屋で、和箪笥が置いてある。隣は、洋室。少し広いリビングになっていて、ソファーや木のイス、鉄の丸いテーブルが置いてあって、その向こうに窓があった。窓にはレースの透明なカーテンがかけられていた。
「どこに行くの?」と、僕はユミに尋ねた。
「私は、忘れ物を取りに来たの。そのタンスの中に入っている私の荷物。その荷物を持って、私は世界のいろいろなところに行くの。目的地は決まっていないわ。そのとき、行きたいと思ったところに行くだけ。いつ戻るのかも決めていない。」
「なんだか、悲しいな」と、僕はつぶやいた。
「君は悲しいんじゃなくて、きっと寂しいのよ。君は寂しがり屋だから。」
「最近、わかったんだよ。僕は寂しがり屋なんだって。なんだか心にぽかーんと穴が開いてしまって、とても切なくなる。」
「それが、君の欠落なのよ。そりゃ、人間ひとりぼっちは寂しいわよ。でもね、それがずっと続くわけではないの。長い時間なのか短い時間なのかはわからないけれど、人間は孤独ではないの。必ず、君の隣には、周りには、君を理解してくれる人がいるはずなの。だから、君は何も焦る必要はなくて、ゆっくりと待つの。待つことは、もちろん辛いことかもしれないけど、特に君のような極度な寂しがり屋さんにとっては、とても忍耐がいることかもしれないけど、とにかく待ってみて。必ず、気が付くから。君にとって、もっとも重要な人が誰なのか、そしてどこにいるのかが。」
僕は、言葉に詰まった。詰まったというより、同意も反論も、とにかく言葉が思い浮かばなかった。僕の胸に、深く突き刺さる重い言葉だった。
リビングドアには、玄関にもつながっていた。ユミは、自分の忘れ物だという荷物を入れたバッグを抱えて、玄関で靴を履いた。僕はその様子を無言で眺めていた。
玄関は、二重のドアになっていた。白い小さな窓付きのドアが二枚。その向こうには、白くてきれいな砂浜が広がり、さらにはエメラルドグリーンの海が見えた。波打ち際がはっきりと見えていた。日本であれば、きっと沖縄とかでしか見られない砂浜と海であろう。僕らは、その砂浜に近い白い家にいたのであった。
そのとき、見知らぬ男性が、ドアを開けた。そして、一方の手でユミが抱える荷物を持った。
「彼と一緒に、世界を周るの。彼は恋人ではなくて、友達だけど、今回の旅のパートナー。」と、彼女は、僕に、彼を紹介した。
僕の心は、なんともいえない悲しみと衝動を迎えていた。精一杯の声で、
「そうなんだ。気をつけて。元気でね。」
ユミは、何も気にしないように、「うん。じゃあね。」と、手を振った。
僕は、「さようなら」と、波の音に消されてしまうほど、小さな声で言った後、もう一度、自分の全ての力と勇気を振り絞って、「さようなら」と、言って、手を振った。
ユミは、彼の空いている方の手をつないで、少しずつ、小さくなっていた。僕は、白い家に戻り、リビングの窓から、ユミと彼が砂浜を遠くの方に歩いていく姿をいつまでも見ていた。
不思議と、涙は出なかった。しかし、とてつもない大きな喪失感が胸に残り、その感情が僕を支配していた。
僕は、裕美とユミ、同じ女性を、ユミは僕の記憶が作ったアンリアルな存在だけれども、二回も喪失してしまったのである。いま、僕ができることは、リビングで、いつのまにか現れたウェイターさんが持ってきてくれたコーヒーを、この白い家のリビングの丸いテーブルを囲んだ木のイスに座りながら、飲むことだけであった。
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「私は、そのカケラにはなれなかった。私は、君の欠落を、できることなら埋めてあげようと思ったのよ。でも、ある日、気が付いたの。私には、それが無理だってこと。それだけ、君の欠落は大きくて、深いものだったの。そして、その欠落に、私は何か大きな力で引きずり込まれそうになったわ。もしかすると、引きずり込まれる方が良かったかもしれない。その可能性は、ゼロだって、決め付けないわ。でも、私は、なんとなく、引きずり込まれてしまったら、私は私じゃなくなる。そう、思ったの。それに気が付いたとき、私は、君と離れることを決めたわ」
全てが終わったことを、客観的にかつ冷静に淡々と解説するように、僕に話した。そして、彼女は、遠くを眺めた。
「それじゃあ、僕と別れたきっかけは、君の身体の変化によるものではないの?」と、僕は尋ねた。
「それは、間接的な理由ではあるかもしれないけど、直接的な理由ではないわ」と、彼女は、あっさりと答えた。
「でもね、私の中で、君から離れることを決めた後も、君自身が変わる可能性を待っていたのよ。君が変わるために、私もいろいろ悩んで、考えて、提案をしたわ。でも、君は何も変わらなかった。」
「いま、その頃のことを振り返れば、確かにそうだったということが、理解できる。僕は、変わらなければいけないとは思っていても、根本的な欠落に気が付いていなくて、何を変えればいいのかわからなくて、結局は、何も変わらなかった。そういうことなんだ。それは、全て、僕の責任で、今だからこそわかる真実なんだと思う。」
「人を愛するということは、難しいことよ。そして、複雑なものね。」
「ああ、そうだね。そして、いつ恋愛が生まれ、どのように大きくなるのかも予測不能だね。」
そう、僕が裕美に初めて出逢ったとき、僕は裕美に一目ぼれをしたわけではなかった。実は、僕は一目ぼれをした相手とは、うまくいったことがない。一瞬はとても熱くなるのだけれども、それは瞬間風速というか、少しずつ風化していく。それよりも、何度か会って話していく中で、相手の人間性や自分との共通性といったものを知っていくことで、自分の気持ちが、その相手に向いていることを知り、そしてその気持ちが恋愛に変わっていく。
裕美とも、そうだった。徐々に彼女のことが気になり、そして、彼女の周りに、いつしか嫉妬する気持ちが生まれ、彼女と会うことが、毎日、楽しみになる。そんな感じで、僕は裕美への気持ちが確かなものとなっていった。裕美が、そのころ、僕にどんな気持ちを思っていたのか、それは裕美にしかわからない。ただ、不器用ではあるけれども、僕は僕なりに自分の気持ちを少しずつ表現していった。
不器用。そう、僕は恋愛に対してとても不器用だ。よく器用に恋愛する人がいるが、なぜ、そんなに器用に恋愛できるのか、僕には理解できない。僕も一応、人並みには恋愛をして、人並みには女性と付き合っていると自分では思っているが、器用な人は、本当に器用だと思う。彼らは、僕が推測するところ、女性が喜ぶことを知っている。いま、この瞬間で、どのボールを投げればいいのか、何をすればいいのか、どんな言葉を投げればいいのか、センスのレベルで知っている。人間性は別として、その一瞬一瞬で自然に女性を喜ばせることができるようである。
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「いま、君に必要なのは、私ではなく、その人なの」と、ユミは、裕美が、僕に何かを言い聞かせるときと同じような口ぶりで話した。ユミが裕美と同じように話し、そして同じような態度をする。それは、ユミが僕の記憶の中で再現されたもう一人の裕美なのだから、きっとそうなるんだろう。付け加えて言えば、ユミは僕の記憶の中の裕美を越えることはない、明らかに限定された存在なのだ。しかし、彼女の言葉は、裕美が実際に口にした言葉もあるし、全く新しい言葉もあった。
僕は、孤独を感じ、その寂しさの中で、自分を振り返るときに、シューベルトの「アヴェ・マリア」を聞く。あの美しい音色は、僕の心に平穏をもたらし、僕の内向きのベクトルへの集中力を高まらせてくれるのである。
その「アヴェ・マリア」が、最初は小さく、段々とはっきりと僕の身の回りを包み始めた。
「ねえ、ユミ。君はいま、なんて言ったの?」と、僕はユミの言葉を聞きなおした。
「君は、この一年間、恋愛をあえてしようとしてこなかったでしょう。喪に臥すなんて言いながら。それは、私への未練とかそういうのではなくて、ただ新しい恋愛を始めるのに臆病になっていただけ。また、恋愛で傷つくことを恐れていただけ。適当な理由を付けて、いつもの君と同じように、その恐怖を私のせいにして、ただ現実から逃げていただけなんだと思う。だから、私は君にとって最大の意地悪をしてあげる。これは復讐でもなんでもないのよ。これは君のためなの」
そう言って、ユミは静かに目を閉じた。言葉を貯めて、その重みは言葉が発せられる前から強く意識をさせられた。
「ねえ、ユミ。僕は、君に大変悪いことをしてしまったし、傷つけてしまった。だから、暫くは、その贖罪を僕自身で贖おうとしていたんだ」
ユミは、何も反論をせず、ただ言葉を貯めた。僕の頭の中に流れている「アヴェ・マリア」は、いよいよ最高潮に差し掛かった。
「解放してあげる」
その言葉は、残酷にも僕の胸に勢い良くさらに強く深く突き刺さった。
「もう私のことは忘れて。贖罪なんて気にしなくてもいい。君は君のために幸せになって。私も私のために幸せになるから。」
ユミは突然、目を大きく開き、僕にそう告げた。僕は、その言葉の重さを真正面から受け止めた。その言葉の重さは、僕には支えきれないほど、重いものであった。
「私が君を解放してあげることで、もう君は逃げられないの。もう何も言い訳ができないの。だって、「私のために」という理由を付けて、君自身が傷ついたり、臆病になっていることから、逃げて、そして聞こえの良い言い訳をしていただけでしょ。だから、私の最後の意地悪で、私が君を解放してあげることで、君を苦しめることにしたの。でも、苦しんだことによって、君は新しい幸せを手に入れるし、きっと大きく成長もするわ。だから、私の意地悪は君にとってはもしかすると、最大のチャンスなのかもしれないわね」
僕は返す言葉がなかった。返す言葉がなかったというより、その言葉の重さに押しつぶされそうになった。そのとき、「アヴェ・マリア」の曲は徐々に小さくなり、聞こえなくなった。
「君を解放してあげるから、新しい恋愛をして。いま、君が感じている新しい恋愛を大事にして。私にしたことと同じ過ちを犯さず、その人と幸せになって欲しいの。もう、わかったでしょう。君の持っている欠落、欠損、そして欠点。だから、それを忘れなければ、その人と幸せになれるわ」
僕は、まだ、何も答えられなかった。言葉を発しようとしても、いまの僕は言葉が完全に産み出せない状態になっているのだ。ただ、あるのは、僕の沈黙と深い悲しみ。
「君はきっと、私に認めてもらいたかったんじゃないかしら。いや、私だけではなくて、社会から認めてもらって褒めてもらいたかった。君は、人に認めてもらいたい、そして誉めてもらいたいという欲望を強く持っているわよね。きっと、君の最大の欠落を生み出す要因はそこだと思うわ」と、ユミは続けて言った。
「今夜も、だから、その欠落を自分で感じ取って、この夜の街で、何か欠落を埋めてくれるカケラを探していたんでしょう?」
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「答えを焦ってはだめよ」と、彼女は言った。
「うん?」と、僕は、静かに尋ねなおした。
「ゆっくりと待つの。ゆっくりと待ちながら、君は自分の答えを君自身で探すの。この場所で。本当に時間がかかるかもしれない。でもね、その答えは、君自身でしか見つけられないし、君自身で見つけなければ意味のないものなの。私は、そのきっかけを作るだけ。ヒントを君にあげるだけなの。」と、彼女は、僕に優しく語りかけてきた。
「じゃあ、ゆっくりと待ってみるよ」と、僕は答えた。
「本当に大丈夫?言葉では、君は何度も私を期待させて、そして裏切った。だから、君の言葉は信じられないわ。だって、君はすぐには変われないのよ。君だけじゃない。人間、誰しも、すぐには変われないの」と、彼女は疑い深く、僕に聞いてきた。
確かに、僕はある意味で、彼女のことを何度も裏切ってきた。自分では、次は同じ失敗をしない、自分を変えるんだと思い、それを誓ってきたけれども、同じ失敗を何度もして、何も変わらなかった。裕美から、「何も変わってないじゃない」という言葉を何度も聞いた。そのたびに、僕は「次こそ変わる」と言って、また同じ繰り返しを重ねてきた。
そのうち、彼女は、さらに身体を変化させた。目に見えない身体の変化。激しい変化。陽から陰に変わるようなぐらい大きな変化。その変化の中の彼女の孤独感、不安感を、僕はそれなりに感じ取り、彼女を支えようとした。しかし、それは逆に彼女を悪い方向に導くだけで、負の循環となっていった。
そして、彼女の身体の変化は、ある秋の冷たい雨が降りしきる夜に、突然、終わった。全てが消えたのであった。残されたと言えば、精神的な傷、身体的な苦痛だけだった。
これが運命なのか、それとも偶然なのかはわからない。もし、運命だとして、あらかじめ二人の歴史に深く刻まれていたのであれば、それは、あまりにも残酷すぎる結果であった。何を恨むものでもない。ただ、目の前の現実を受け入れざるを得なかっただけであった。
それから、明らかに、彼女は変わった。僕と接する態度、僕を見る目、使う言葉、どれをとっても、全てが変わった。生活も変わった。毎日、電車には、僕一人だけで乗り、会社に出勤して、夜は僕の部屋で一人で食事をした。彼女に電話すると、明らかに不機嫌で、メールの文章も「ですます調」になっていた。彼女は、どのような生活をしていたのかはわからないが、少なくとも僕が知る限りでは、一人で酒を飲み、一人で遊びに出かけていた。もちろん、一人ではなくて、友達と一緒だっただろう。変わったことは、そこに僕がいないということである。夜、ふと僕の部屋で目が覚めると、いつも横にあったはずの彼女の寝顔はなかった。首都高速のテールランプが窓から差し込んで、彼女の眠っている顔を照らしていたが、ただ白いシーツにオレンジ色の光が当っているだけであった。
このとき、僕は「喪失感」を知った。一度に2つのものを失ったのである。
目の前のユミは、「君は、前に進まなければいけないわ。目の前には、私ではなく、もっと違う人がいるはず。君は、その人のことを間違いなく愛しているわ。」と、言ったとき、僕は裕美との思い出から急に現実に引き戻された感じがした。
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「やっぱり、変わっていないわね。そういうところ。」ユミはため息を交えながら、そう言った。僕には、ユミの言った言葉の意味を理解することが出来なかった。その様子がユミにはわかったようで、さらにため息を2回、3回とした。
「君は、なんでいつも君のペースなの?なんで、相手のペースを考えないのかな。」ユミは明らかに、幼稚園児や小学生を相手にするように、ゆっくりと僕に疑問を投げかけた。
「僕のペース?僕はそんなに焦っているのかな?」と、僕はユミに尋ねた。
「別に私にはもう関係ないことだから、いいけど。人にはいろいろなペースがあるの。いろいろと考えるの。いろいろと気持ちとか考えの整理をするの。君は、いつでもすぐ結果がわからないと、イライラするし、そうやって、相手に自分のペースを押し付けるの。相手のペースに合わせるということも優しさなのだと思うの。いつも君は自分の感情や気持ちを相手に押し付けてばかり。それが、相手にとっては、負担になっていることを、君はわかっていないの。もちろん、自分の気持ちや意見を相手に伝えることは重要なことよ。でもね、一方的に送り続けることは、「伝える」ということではないの。時には、ゆっくりと歩く、ゆっくりと待つということも、きっと重要なのよ。」
「ねえ、ユミ。僕は、いろいろと間違っていたようだね。いつも君に迷惑をかけてばかりだ。」
「いいのよ。君は私にはもう関係ない人間だから。君の一挙一動に驚いたりしないし、反応もしないし、傷ついたりもしない。だって、もう君のことは興味がないから。」
僕の胸に、何か突き刺さるものを感じた。
ユミと付き合っていたとき、仕事に出掛ける以外は、何かと理由を付けて、ユミと一緒にいる時間がほとんどだった。僕の部屋でユミを抱いたあの夏の夜、僕は窓を少しあけると、首都高速のテールランプが煌々と光っているのが目に入った。その景色が鮮やかに蘇り、音をかけて崩れていく。いつも、僕はユミと渋谷に出て、買い物をして、僕の部屋に戻って、食事をして、ユミを抱く。そんな代わり映えのしない平凡な毎日だったあの頃が、とても遠く感じる。休みを合わせて行った伊豆高原の山荘。あの時、僕は彼女の身体の変化に、微妙に気が付いていたのかもしれない。確証はないけれども、何か自然な感触が、いつもの彼女と違っていたように感じていたんだと思う。だから、その後に起きる哀しくて辛い出来事、さらには彼女との別れが思い浮かんだのだろう。
中伊豆の山道を走りながら、この瞬間が永遠に続けばいいと祈り続けた。この瞬間というより、もっと言えば、この状態がということかもしれない。今のままの二人の関係のまま、ずっと続いてほしかった。当分は、僕たちの関係に何の進展もいらない。今のままで、この平凡な毎日の繰り返しかもしれないが、その生活が続くことを望んでいた。東京に戻ったら、また僕はユミとの同棲生活の中で、毎日、電車に二人で乗って、途中でそれぞれ別な電車に乗り換えて、会社に出勤をして、夜は僕の部屋で二人で食事をするか、もしくはどこかで待ち合わせをして、少し贅沢な夕食を食べるか、そのままどこかのバーに行って、お酒を飲む。なるべく電車に乗って帰ることにするけど、たまに深夜になってしまって、タクシーで帰る。休みの日は、散歩をかねて渋谷まで行って、映画を見たり、買い物をしたり、下北沢で芝居を見たり。そんな日常の中に幸せを見出して、小さい幸せであるかもしれないが、そんな生活が続けばいいと思いながら、山道を走っていた。彼女も、きっと、それを望んでいたはずだし、それは僕に何度も告げていた。
ただ、それは彼女の身体の変化と比例して、徐々にその日常も変化していった。僕は僕で彼女の願いを聞かず、仕事を変えることをしなかった。同時に、彼女の身体の変化は、僕に偏った責任感を芽生えさせ、その偏った責任感が僕の気持ちを拘束し、さらには彼女を拘束し始めた。
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「僕は、ここに来なければいけなかったの?」と、僕は静かに、一つ一つの言葉を確かめるように、ユミに尋ねた。僕は、不安、もしくは恐怖感と言った方がいいかもしれないが、何か大きな抑圧感に襲われていたのである。もし、僕が一つでも言葉を間違えたら、その瞬間にユミが目の前から消えてしまうのではないか。現実の石和裕美ではなくとも、僕が自分の幻想の中に作り出したユミであったとしても、できるだけ長く、僕はユミと一緒に同じ時間を過ごしたかった。
これは、ユミや裕美に対する愛情というか恋愛感情によるものではない。いま、誰かに僕の側にいて欲しい、僕のことを少なからず理解して欲しい、認知して欲しいという欲望によるものなのかもしれない。
良くも悪くも、ユミは、僕のことを理解しているし、多分、僕以上に僕のことをわかっているはずである。僕がいま、わかり始めている自分の姿、それをユミは、ずっと前から知って、それを僕にいろいろな形でメッセージを送り続けていた。しかし、僕はそのメッセージに気が付かず、ただ、僕の悪い部分は他人のせいにして、僕自身を成長させることから逃げていただけだったような気がする。
ユミは、小さく微笑みながら、僕の目をしっかりと見つめた。実際には数秒のことであるが、何分も何時間もの時間が経過したように思えた。お互いに見つめ合いながら、静寂が僕たちを包んでいた。
僕は、少しずつ、ユミいや裕美と一緒に行った伊豆高原を思い出していた。あの頃は、まだ、確かにお互いのわがままが原因で何度か喧嘩をしていたが、その後、別々の道を歩むことになるとは、多分、お互いに思っていなかっただろう。これは、僕がそう思っているだけで、彼女は違っていたかもしれない。
ただ、そうであっても、そのとき、僕は車のハンドルを握りながら、これが最後の旅行になるのではないか、最後のドライブになるのではないかということが脳裏に浮かんでいた。この僕の小さな不安は、今から振り返れば、正解となる。なぜ、あのとき、幸せだったはずで、将来の不安もなかったはずなのに、そんな小さな不安が僕を襲ったのだろうか。ユミと見つめ合っている間に、そのような記憶が蘇ってきた。
「ねえ、なんで、僕はここに来なければいけなかったの?ユミ?」
僕は、答えを焦るかのように、ユミにもう一度、質問をぶつけた。すると、ユミは呆れたように、口元に苦笑いを浮かべながら、小さな声で言った。
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「君は本当にユミなの?」
僕は、目の前にいるユミに聞いてみた。現実的に、ユミが僕の前にいま、こうして現れて、しかも僕にこんなに饒舌にお説教をするなんて信じられない。しかも、僕はユミとキスをした。あんなに僕のことを嫌いになったユミが僕と唇を交わすだろうか。確かに、僕はユミと最後に別れるときに、キスをした。そのとき、そのキスはとても悲しくて辛いキスだった。しかし、その感触は、ずっと忘れていたし、今も正確に思い出そうとすると、思い出せない。ただ、「キスをした」という事実以外は、僕の記憶からずっと消されていたのである。それは、ユミと過ごした日々と共に。
「私はユミよ。君の中のユミ。」彼女は顔に微笑を少し浮かべながら、言った。
「僕の中のユミ?じゃあ、君はイサワユミさんではないの?」と、僕は目の前にいるユミに尋ねた。ユミは少し戸惑ったように、しかもどのように答えればいいのか、悩んでいるように、目を閉じて、鼻でため息をついた。
「私の名前は、イサワユミ。でも、それは君の中のイサワユミなの。君にわかるかしら。」
「僕にはさっぱり、わからないよ。何がなんだかわからない。僕の中のユミって、別なユミもいるの?そもそも、ここはどこなの?」
「君の言っているイサワユミさんは、きっと現実の世界で元気に暮らしていると思うわ。私も詳しくは知らないけれど。君が知っている現実のイサワユミさんのこと以上は、私にもわからないわ。私は君の記憶が紡がれて作られた君だけのイサワユミ。でも、君だけのイサワユミだとしても、私は君にとって自由にはならないの。残念ながらね。私の役目は、君をこの世界に閉じ込めることではないから。もし、私が君にとって自由にできる存在になったならば、君はこの世界の特異性を知りながら、この世界から出ようとしないでしょう。それだと、現実の世界では君の人間としての活動は停止したままになってしまう。時々はいいのよ、この世界でゆっくりするのは。人間にとって、この世界にいることは、とても重要な意味を持つことだから。でも、いつかはこの世界を出て現実世界に戻らないといけないの。私は、君が成長するために、メッセージを届けるだけの存在。現実世界のイサワユミさんが私と同じ事を思っていたり、考えているかどうかはわからないの。」
「じゃあ、君は石和裕美ではなくて、イサワユミなんだね。君は僕が作り上げた仮想的なイサワユミ。」
「すごい。こんなに早く私のことを理解できるなんて、信じられないわ。」
「理解しているかどうかはわからないんだ。だって、君のことは石和裕美さんに見えるし、この世界がどんな世界なのかもわからない。きっと、僕はまだ理解はしていない。でも、わかっていることはある。それは、君が石和裕美さんだとしたら、何か違和感を感じるし、現実的に考えて、現実の石和裕美さんが僕の前に現れて、僕のために、お説教をしてくれるわけがない。だって、彼女には「顔も見たくない」って、言われたんだから。だから、なんとなく、君は石和裕美さんではなくて、イサワユミさんなんだってことはわかるよ。」
「現実の石和裕美さんが、今どんな生活をしていて、どんなことに幸せを感じていて、どんな恋愛をしていて、どんな恋人がいるかはわからない。そんなことは関係ないの。私は、君の中で最後に石和裕美さんに会った、あの日から止まったままの石和裕美の記憶が作り出した、もう一人のイサワユミなの。」
「現実の石和裕美さんに恋人がいたら、少し妬けるな。」すると、すかさず、ユミは、
「嘘。石和裕美さんのこと、懐かしくは思うけど、恋人がいたって、平気なくせに。あなただって、新しく好きな人ができて、毎日、その人のことで頭がいっぱいになっているでしょう。もう私のことなんて、忘れちゃったくせに。」
「僕は裕美には幸せになってもらいたいと思っているよ。僕は彼女を幸せにすることはできなかった。いや、一緒にいても幸せになることはできなかった。それが、分かるからこそ、裕美には幸せになってもらいたいと思う。だから、現実に裕美が新しい彼氏と仲良く手をつないで歩いていたら、少なからず、良かったなと思うよ。妬けるというのは冗談だけどね。」
「私はイサワユミでもありながら、君自身でもあるの。この世界に君は偶然に迷いこんだわけではなくて、必然的に来たの。なぜならば、君はここに来なければいけなかったから。」
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「ありがとう?」、ユミは沈黙を破った。
「いや、僕もよくわからないんだけど、とにかく「ありがとう」って言いたくて」 僕は答えた。
「自分でもよくわからないなんて、君らしいわね。そう、きっと、君はまだ君自身のことをわかっていないのよ。君は元来、甘えん坊。それでいて、素直じゃない。何か変なプライドを持っていて、素直に甘えられないの。だから、スネたり、いじけたり。ただ、スネるだけではなくて、スネるときも素直じゃないから、変な屁理屈を付けたり、私に意地悪したり。本当にひどい人よ。」
僕は、彼女の言葉を聞きながら、胸が締め付けられるように苦しんでいた。客観的に見て、僕はこんなにひどい人間なんだろうか。僕は、ユミの言っている言葉を信じたくない、認めなくなかった。
もっと、僕が自分に対して思っている僕は、もっと違う人間のはずだ。きっと、ユミが少し変わっていて、もしくは変になっていて、おかしなことを言っているに違いない。いや、きっと、そうなんだ。
「今、君は君の問題を私のせいにしようとしているでしょう。」
ユミは唐突に、僕に尋ねてきた。ユミには、僕が考えていることの全てがお見通しという感じで、
今、僕が一生懸命、考えていることを指摘したのであった。
「もっと自分のことを認めなきゃだめ。君は君でしかないの。確かに、他人に責任転嫁をして、問題から逃げてしまうこと、つまり、本当は自分のせいなのに、他人のせいにしてしまうということは、楽なことだと思うわよ。ずっと、自分は正しい、自分は間違っていない。と、自分の欠点や問題点を認めるより、悪いのは社会のせいだ、悪いのは誰かのせいなんだって、考えた方が楽。誰だってそう。そして、心が弱いと、そうしてしまう。だから、もっと強くなりなさい。自分は良いところから悪いところまで、全てを合わせて自分なの。それを認められる強い人間になって欲しいと思うし、ならなければいけないわ。私は君には何も期待しないけれど、君自身のために、がんばりなさい。」
母が子どもに諭すように、ゆっくりとユミは僕に諭した。そう、僕は弱い人間だ。だから、何かを頼ってしか自分の存在価値を表せない。もっと言えば、自分の存在価値なんて、他人が見て判断するものなのに、自分が他人にこのように評価されたいというものを考えて、それを他人に落ち着けるための努力しかしなくて、本当の意味の人間としての成長というものの努力を怠っていたような気がする。全て、ユミの言う通りなのだ。僕は弱い人間で、いつも逃げてばかりなのだ。
僕は、ふと思った。ユミはこんなに饒舌だっただろうか。いつも接してきたユミは確かにいつも楽しい話題を持っているし、説教くさい部分もややある。思想的には、どちらかというとやや反体制的で、きっとコンサバティブ(保守的な)僕とは話は合わないだろう。それに、アメリカよりは中国が良くて、増税には反対。この辺りも、僕とは異なっている。きっと若貴騒動には、彼女なりの一言を持っているに違いない。でも、本来のユミは、ここまで饒舌だっただろうか。目の前にいるのは、ユミではあるが、ユミではない。そんな違和感が徐々に高まってきた。
僕は、ユミとはもうずっと前に別れていて、それから言葉を交わしたことはない。顔を見かけたことは何回かあるけども、向こうは気が付いていないはずだし、僕も話しかけるような用事もないので、話すこともない。だから、徐々にユミの顔すら、おぼろげながらになってきて、いま、僕が眺めているユミの顔は、本当にユミの顔なのかすら怪しいのである。
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僕が彼女に会ったのは初夏だった。あの年は、どちらかというと冷夏で、テレビなんかでは海水浴場では、海の家が商売にならないとか、そういうニュースが毎日放送されていた。そんなニュースを僕はぼんやりと、日本って平和だなぁと思いながら、(もちろん、海の家とか夏にまとまった収益を出さなければいけない商売にとっては死活問題なわけで、こんなことを言うと、きっと僕はそういう人たちからは怒られるだろう)、彼女に少しずつ恋心を感じ始めていた。
あと、思いだせるのは、雨が多かったということだろうか。まあ、ちょうど日本の季節的には梅雨なわけで、この時期に雨が少ないと問題ではあるが、彼女に会うときは、いつも雨が降っていたような気がする。雨が少ないということでは、確か僕が小学生の頃、深刻な水不足になったときがあって、東京ではぎりぎりなんとかなったらしいけど、もっと違う地域では給水車が出るとか、そんなことがあった。そんな経験から遺伝子的に「水を大切にしなければ」ということが植えついていて、梅雨とか夏に雨が降ると、少しほっとする。
僕はその頃、大きな失恋をした後に、小さな失恋をいくつかした後で、暫く恋愛はいいかなと思っていた。僕は当時、恋愛はとても苦しいものに感じられていて、胸を締め付けられるようなことがとても辛くて、一喜一憂というような心の変化もなんだか楽しめなくなっていた。そんなときに、彼女が僕の前に突然現れたのであった。
僕と彼女は、確か仕事の関係で出会った。「確か」という言葉を使ったのは、記憶はたいがいにして美化される。とくに恋愛に関する記憶は、大抵美化され、大げさに記憶に残る。たいした出会いでなくとも、二人の間では、とてつもなく素晴らしい出会いになってしまう場合もある。「あばたもえくぼ」という言葉があるが、また「恋愛は人を盲目にさせる」という言葉もあるが、実はたいしたことがなくとも、素晴らしく見えてしまう、それが恋愛の魔力なんだろうと思う。
彼女の名前は、今ここではあまり重要な意味をもたないだろう。ここで重要なのは、「確かに」一定の期間、僕は彼女に恋をし、愛していたこと、そして彼女も僕に「きっと」恋をして、愛していたこと。それが時間が経過していくとともに、彼女の気持ちは、徐々に僕から離れ、そして「確実に」僕よりも先に別れを意識したということである。そして、結果として、彼女と僕との恋愛関係に終止符が打たれたということである。さらには、そのことの責任は全面的に僕にあるということである。
ただ、ひとつの目印というか識別という意味で、「仮に」彼女の名前を決めておくのであれば、「ユミ」という名前で彼女を呼ぶことにしよう。
ユミは、自立した女性であった。自立した女性であったといっても、フェミニストだとかそういうことではなく、しっかりとした「考え方」、「価値観」を持ち、僕よりもずっとずっと大人であった。僕がまだまだ若かくて、子どもであったということもある。それでも、ユミは、はるかに大人の女性であった。
だから、僕にとっては恋人であると同時に、「お姉さん」的な存在であり、僕は表面上は、彼氏として振る舞うが、内面的には、全面的にユミに依存していた部分が強い。僕は、恥ずかしいから自慢にはならないが、精神的にけっこう弱い部分があって、目の前に困難があると、不安になったり、考え込んでしまったりする。そんなとき、僕は少なからずユミを逃げ場にしていたことは否定できない。
その意味では、ユミは僕にとっては出来すぎた彼女であったのであろう。その悪循環が彼女の気持ちを少しずつ僕から遠のかせることになったと、僕は今にして思える。
だから、僕が今、ユミに伝えたい言葉は、「ありがとう」という言葉である。
今、目の前に広がっている光景は、僕がユミと最後に別れたシーンの再現ではなく、明らかに別のシーンである。だから、記憶のフィードバックとかそういうものではなく、たとえるなら、押入れの中にしまわれていた古いアルバムの中から、今まで見たことない新しい写真が見つかったという感じだ。
僕は、確か新宿の古ぼけた店にいて、その店主の老人は赤い蝋燭に火を灯していた。その瞬間、僕は意識が遠のくような感じがして、少し眠くなって、目を閉じた。次に目を開けた瞬間に見た光景が、この新しい写真であった。今、目の前にいるのは、あの冷夏の年の初夏に出会ったユミであった。
お別れのキスをして、「願わくば、またキスをしたいな」と言っている僕は僕自身ではなかった。
なぜなら、僕はそう言っている僕も見えているからだ。つまり、主観ではなく、第三者の視点からユミと僕を見ていることになる。しかし、彼女が何も答えなくなってから、明らかに写真の中に僕はいなくて、僕の目を通じて、ユミだけが見えている。客観的視点から急激に主観的視点に変わったのだった。
僕は、一所懸命、何かを発しようと、適当な言葉を頭の中で、考えていた。
そのときに、無意識で出た言葉が、「ありがとう」だった。
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「人は、知らない間に人を傷つけているんだよ」
「えっ?」と僕は聞きなおした。
「君にとっては普通に話している言葉、普通の行動が、他人を知らない間に傷つけていることもあるの。」
夢の中の彼女は、僕にそう伝えた。続けて彼女は、
「それが私には我慢できなかったの。だから、私は君と一緒にいることはできなくなったの。」
彼女の表情は、どこか悲しげで寂しさを含んでいた。当然、僕も寂しい気持ちになっていた。
「でも、それはわかるよ。理解することができる。」と、僕は言った。
彼女は意地悪そうに、
「何がわかるの?君は、『いろいろありがとう』とか、抽象的な言葉をよく使って、結局、何がありがとうなの?と思うんだけど、いまは、何がわかったの?」
と聞いてきた。
僕は、少し困った。確かに、『いろいろ』とかそういう言葉をよく使う。
彼女は、続けざまに、
「そういう抽象的な言葉を聞くとね、君は何もわかっていないんじゃないかって思うの。ただ、『うん』とか『はい』とか、曖昧な返事と同じように、てきとうに反射しているだけなんじゃないかって。だから、本当は、私の言葉なんか、話なんか全く聞いていないんじゃないかって。そう思うの。君は、自分の価値観が絶対視されていて、批判されることない君だけの世界の王様でしょ。決して、その世界から出てこようとしない。私がその世界の外にいれば、外の世界を否定して、私を君の世界に引きずり込もうとする。だから、外の言葉は君にはきっと届かないのよ。」
彼女は、僕の顔を眺めた。そして、ため息を交えながら、話を続けた。
「私は君の世界では生きていけないの。でも、一度は生きていこうと思ったのよ。君のことが好きだったから、それでもいいと思ったの。でも、その世界に閉じ込められることは、私にとっては息の詰まることで、精神的に疲れて、そして私という存在が押しつぶされそうになったの。それだけ、君の世界は絶対的で強いものなの。」
僕の胸が痛む音が聞こえた。自分では、意識していなかったけど、確かに自分の世界いや世界観に、強引に彼女を引き込もうとしていたのは、事実だった。
「私には君の中から君の悲鳴が聞こえるのよ」
僕は、意味がわからなかった。
「君は、必死に、その世界から出ようとしている、そんな部分もある。それは認めるわ。でも、相反する君の意識や観念が、その世界から君が出ようとすることを引き止めるの。だから、いつまでも、君は外の世界には出てこれないの。」
確かに、僕は自分の世界に引きこもろうとする癖がある。理由は、簡単で、その方が楽だからだ。もちろん、僕の部屋に訪れる人は歓迎する。でも、ずっとその部屋にいる人はいなくて、必ず別れがある。僕自身は、その部屋にいて、人が来ることだけを待っていて、自分から部屋を出ることはしない。彼女の言うとおりだ。
「君はかわいそうな人ね。君は私にとてもひどいことをしたの。それを意識していたとしても意識していなかったとしても同じこと。もう一緒にはいれないのよ。」
僕はとても悲しい気持ちになった。悲しくなった理由。ひとつは、彼女ともう一緒にいられなくなったこと、もうひとつは、彼女に取り返しのつかないことを知らない間にしてしまっていたことを悔やむ気持ちだった。
「よく理解したよ。僕は知らない間に君のことを傷つけていたこと。ごめんね。」と、僕は謝った。
「もういいの。謝ってもらわなくてもいいの。君と私は一緒にいるべきではない、ただ、それだけのことなの。」
と彼女は言った。
その後、僕と彼女は、軽く唇を重ねた。お別れの意味もこもった悲しいキスだった。
「願わくば、またキスをしたいな」
僕は、そう呟いた。彼女に未練があることは確かだし、もしやり直せるのであれば、やり直すことを挑戦したい。でも、彼女のベクトルが違う方向に向いていて、それはどうしようもないことなのだ。
彼女は、小さな微笑を表情に残した。さきほどまでの悲しく寂しそうなセピア色の顔に少し色が付いた感じであった。そして、僕の言葉に、もう返事はなかった。
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僕は店を見渡してみた。確かに蝋燭の色はたくさんの色があった。赤い蝋燭、黄色い蝋燭、青い蝋燭、緑の蝋燭、色という色はすべて揃っている感じであった。それとともに、僕は少し背筋が寒くなるような感触を持った。ここまで、平然と店に入り、半分冷やかしで入った店であったが、この店は店という感覚ではない。異様な「空間」と言った方が良いほど、異様だった。もう少し僕の受けている感触を説明してみよう。いわば、存在と存在の間にあるちょうど「のりしろ」という言葉が適しているかもしれない。ただ、その場は、本来であれば、存在しないはずの「空間」で、存在と存在のねじれで、偶然に出来上がってしまったような、いわゆる中間的な存在であるのだ。いや、むしろ「存在」という言葉自体もおかしいかもしれない。「エアポケット」。こんな感じである。つまりは、時空の、存在の「ポケット」の入り口が、ぽっかりと、この街に開いてしまったという説明ができるのではないだろうか。
いや、この街そのものが、一種の「エアポケット」なのかもしれない。いろいろなもの。それは人種であり、言葉であり、喜怒哀楽の感情であり、欲望。そうしたいろいろな違いや人間が生きている上でのごく一般的で日常的なものを、この街は吸い上げているのではないだろうか。
いま、僕はその街の、さらに洗練された暗闇の空間に確かに存在していた。「ブラックホール」というものがあるのであれば、そのホールに吸い込まれたように、僕は、いつのまにか、その空間に引き込まれていたのである。
こんなことを頭の中で、人間の時間にしたら、わずか数秒のことかもしれないが、複雑に考え込み、ひとつの興味と関心を持った。もし、存在しない「空間」があるとするならば、それはどんなものなんだろう。でも、あまり深く入り込みすぎるのも嫌だという二つの感情が矛盾して、お互いをけん制しあっていた。
「ええ、いろいろな色の蝋燭がありますね」
僕は、老人の問いかけに答えた。
「人間には完全な人間なんていないんだ」
老人は、つぶやいた。そして
「この場所は、不完全な人間が自分を見つめなおすための場所だ。完全な人間はいないんだから、不完全なままでいいのか。いや違う。不完全だからこそ、自分の不完全性を知り、少しでもそれを穴埋める努力をすることができるのが、人間なんだ」
僕は、「そうすると、ここは自己啓発とかその手のセミナーなんでしょうか。僕は、あんまり、そういうのには興味ないな。僕は自分のこと完全な人間だとは思わないけど、不完全過ぎるとも思わない。だから、もし、あなたが言っているようなことをする場所であれば、僕はここには不似合いだ。もっと、ふさわしい人がいる。だから、僕はここに来たのは偶然で、必然ではないんですよ」と強く主張した。
老人は、「何もわかっていないな」と言った。
「失礼だな」と僕は怪訝な顔をして、店を出ようとした。
「この場所は、君の意識の中だけに存在している場所だ。一度、この場所に来てしまった以上、君は前に進むしかない。後戻りはできないよ。君は、すでに君の不完全性を感じている。しかし、防禦本能の一部で、それを認めていないだけなんだ。君は、君の不完全性を理解することこそ、今君が人間としての成長をするために必要なことなんだ。君は心の中で、この場所を、そしてその作業を求めている。だからこそ、君はここに来たんだ。」
というと、老人は、ひとつの蝋燭に灯りを点け始めた。それは、赤い蝋燭であった。僕は、ただ呆然とその場に立っていることしかできなかった。
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「いままで、何度か、この辺りは通りがかったことはあったんですけど、初めて、気が付いて、偶然に入ってみたんです。決して冷やかしなんかじゃありませんよ。」
僕は、ゆっくりと、自分の周りを見回してみた。店にはいったとき、薄暗さを感じたけども、薄暗いというより、暗いという表現の方があってそうだ。明かりは、全て蝋燭とランプによるもので、電気機器は見当たらない。ここは、電気も通わない、現代の異空間のようだった。
耳を澄ませてみた。新宿のこの辺りなら、どんなに静かでも、どんなに夜中でも、人々の歩く音、笑い声、叫び声、泣き声、近くを走る車の音が聞こえるはずなのだが、何も聞こえない。まさしく無音の状態だ。聞こえるのは、唯一、空気の流れる音。かすかな空気の流れだ。
このお店は、一体なんなんだろうか。僕の頭の中には、大いなる「不安」が重たく、のしかかった。昔、間違えて入った怪しい店よりも、さらに怪しい。いや、「妖しい」。
「君がここに来ることはわかっていたんだよ」
店主の初老の男性は、言葉を選ぶかのように、重々しく話し出した。
お客を「君」って呼ぶなんて、なんて失礼なんだと、少しむかっ腹が立った。それはもちろん、僕は若いけど。それに「来ることはわかっていた?」、そんな意味の分からないこと言われたら、何がなんだかわかんなくなってしまう。そうじゃなくても、この店の雰囲気に圧倒されてしまっているのに。
「僕が来ることを知っていたんですか?」
僕は、少々、攻撃的に質問をした。そうすると、初老の男性は、
「所詮、運命なんて決められているんだ。偶然なんてない。ただあるのは、必然だ。」
「僕は、偶然、この店を見つけて、偶然入ったんだ。」
カウンター越しの魔法使いのような初老の男性は、ゆっくりと、カウンターをくぐって、こちらに向かってきた。
僕は、内心ビクビクしていた。僕は何か失礼なことを言っただろうか。いや、客はこちらで、失礼なのは相手の方だ。でも、暴力にはめっぽう弱い。逃げ出せるだろうか。
「君、ここにある蝋燭、色が違うだろう。」
初老の男性は、僕を諭すように話し始めた。
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僕は、都会の雑踏の中、一人歩いていた。ふと見上げると、満月がきれいに冬の夜の空に映えていた。
「こんな都会の中でも、冬は星がきれいなんだなぁ。月明かりも神々しいし」
僕は、なんのあてもなく、ただぼんやりと、街の中を歩いていた。海の中を彷徨うクラゲのように。交差点には、カップルや子どもを連れた母親、父親、さまざまな人々が通り過ぎていた。これが都会の日常の風景だ。その日常の風景から取り残されるように、僕はその場に少し立っていた。
繁華街のネオンは、いつまでも明るく街をにぎやかにさせていた。交差点とは違って、赤ら顔の男性や厚いコートを着た女性たちが、丸く円を囲んで、騒いでいた。これもまたこの街の日常の風景だ。
喧騒から逃げ出したい一心で、繁華街の大きな通りから外れて、僕は少し狭い路地に入った。他人に言わせれば、たいしたことのないことかもしれないけど、僕は毎日の日常に疲れてストレスを感じている気がなんとなくしていた。
僕の幸せは、君と一緒にいる時間。でも、君は僕の隣にいない。君と付き合っているわけではないから喪失感というわけではないけど、ふと気がつくと、寂しさが心の奥からジワっと溢れそうだった。
路地を入ると、ぼんやりと小汚い店が目に入った。今まで、何度もこの路地裏を歩いたけど、気がついたのは、今日が初めてだった。
「こんな店あったっけ?」
僕はたぶん、周りの人には聞こえないくらい小さな声で、そう呟いた。
何か怪しい店かもしれないから、いつもなら避けて通るだろう。僕はリスクラバーではない。どちらかと言うと、小心者でリスクを背負いたくない性格だ。だから、大胆で何事も積極的な人に憧れたこともある。だけど、今日に限って、なぜかその店に入ってみようと思った。怖いお兄さんが出てくるかもしれないと、少し足がすくんでいた。でも、魔がさしたというのか、つい、お店の暖簾をくぐってしまった。
「いらっしゃい」
お店の中にいたのは、初老の男性だった。その男性の姿は、あたかも魔法使いのような格好をしていた。
「あの、このお店はなんのお店なんですか?」
僕は恐る恐る聞いてみた。昔、一度だけ、僕は中年の男性に騙されてお店に入ったら、聞いていたのとは違ったお店で逃げ出したことがあった。
「なんにも知らずにこのお店に来たのかい?」
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毎日、連載するのは、胸を張って「自信がない」と言い切れますので、不定期連載ということで、新作をやります。
題名は、「今夜、夢の中で君に出逢う」です。
長編は、「ハールメンにおまかせ」以来です。小説は、こちらも途中で止まっている「臥龍」以来ですね。
※「臥龍」は、10年ぐらい前に書いてて、まだワープロの時代だったので、原稿が掘り起こせず、公表できておりません。
がんばります。
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