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遺書:2007年8月8日

 最近の日本社会の状況、風潮などを見ていると、本当にこれで良いのだろうか、と思う場面がある。「義務と権利」、「責任と権利」の双対の概念、他者の尊厳を大切にするという相互の信頼性、そして、互酬性の精神。

 このまま、日本社会は、どのようになってしまうのか。子供や孫たちの将来世代に、どのような社会を引き継ぐことができるのか。ぼくが、子供のころに感動したことを、同じように感動することができるのか。ぼくが、これまで、大人の方や先輩たちから得て感じている、人間の優しさ、ぬくもりを、将来世代の人々は、同じように感じることができる社会であるのか。

 ぼくは、生まれてきてから、これまで、多くの出会いを通じ、成長することができた。それは、今でも変わらない。今も、ぼくは、多くの人々に支えられ、そして、温かな愛情を頂いている。ぼくは、周りの人々から支援や好意を頂いてきたから、ここまで生きてこれた。そのことに、心から感謝をして、ぼくは、ぼくが今まで頂いてきた優しさを、周りの人々や将来の後輩、子供たち、孫たちにつなげていきたいと思っている。

 しかし、その反面、その人にとっては、本当に心ない一言や行為であっても、それが、他者の尊厳を大きく傷つけることもある。ぼく自身も、何度か、他者から、ぼくの尊厳を傷つけられたこともあるし、ぼくも、誰かを知らない間に傷つけてしまっていることもあるだろう。数年前の記憶を思い返してみれば、確かに、ぼくは、その人のことを深く傷つけてしまった。それについて、今でも、思い出すたびに、贖罪したい気持ちが強く心を支配する。特に、他者に自分の尊厳を傷つけられたとき、ぼくは、それを思い出す。

 「死」とは、「生」の双対概念であり、「生」あらば、必ず、「死」がある。「死」の概念を受け入れ、理解し、納得することから、「生」の瞬間は輝きだす。生きることとは、死ぬことであるのだ。

 人は、誰でも、その「生」に意味があり、「死」に意味があるのだ。

 ぼくは、自分に尊厳を持って日本という国に殉じたい。しかし、その日本という国、社会が信じられなくなったとき、その「死」は価値を失うと思う。

 最近、起きたいくつかの出来事によって、何が真実で、何が嘘なのかがわからない社会の複雑さを感じさせた。その中で、「生」や「死」の意味や価値は、どこまで重要なのだろうか。もしかすると、何も重要ではないのだろうか。ぼくが、これまで大切にしてきた想いというのも、そんなに重要ではなかったのか。もし、そうならば、心から空しさを覚える。そうであっても、ぼくは、自分の大切にしてきた価値や尊厳に、最期まで殉じたい。

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