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兵とは、流れる河の如く

 学問とは、常に、流れる河の如く、変化させて使うものである。学んだことを、頑なにあてはめることではなく、その学んだことを、いかに、現実に活かすかということを考えるべきである。

 これは、兵法にあっても同じ。兵法は、原則なり基本ではあるが、それは絶対のものではない。天の時、地の利、人の和に伴い、応用・可変的なものでなくてはならない。兵家の生兵法ほど、怖いものはない。

 蜀漢の馬謖も街亭の戦いで、兵法に従い、敗戦し、連戦連勝であった蜀漢の第一次遠征を失敗に終わらせた。歴史に"if"はないが、仮に、王平の進言を採用していれば、蜀漢は、長安を占領していた可能性が高い。長安を占領することができれば、魏の都にも侵攻可能で、歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 このような歴史の転機は、壮大な歴史の中でいえば、本当に、ほんのささいな出来事で起こりうるのである。

 三国志演義の主人公は、前半は、劉備玄徳、後半は、諸葛亮孔明である。正史に比べ、水滸伝などと同系統の仁義の話であり、その「徳」の共鳴の話である。人の和を得た劉備玄徳の「徳」、先帝(劉備)への「忠義」のために生涯を貫いた諸葛亮孔明の「徳」である。だからこそ、三国志演義の中盤のクライマックスは、白帝城の劉備が崩御するシーンであり、
出帥の表」があり、最後のクライマックスは、無念の秋風五丈原における諸葛亮孔明の死をもって迎えるのである。

白帝城でのシーンは、主役交代、つまり、「徳」の引き継ぎが行われる。
つまり、劉備玄徳は、「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」と言う。これに対して、諸葛亮孔明は、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」と答えるのである。

 「徳」とは、死して初めて、輝くものなのかもしれない。むしろ、死して初めて、「徳」を完結できるのかもしれない。

 「徳」のために、その生涯を、命をかける、という生き方は、「男の生き様」としては、美学になるのではないだろうか。

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