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社会通念的な価値すなわち「契約」について

 無事に、帰国いたしました。LAからの帰国便は、かなり空いていたようで、エコノミークラスなのに、ファーストクラス的に優雅にフライトを楽しみました。横になりながら、雲を眼下に望み、白ワインを愉しみ、本を読んだり、映画を見たり、論文を書いたりしていました。あとは、お気に入りのクラシック音楽があれば、申し分なしでした。いつも、こんなフライトができると良いのですが。

 ただ、人生は、そんなにうまく行かないもので、映画を見ながら、ワインを飲み、ゴディバのチョコレートをつまんでいたのですが、なんとなく、胸やけを覚え、そのまま1時間、惰眠をむさぼり、目を覚ました瞬間に、気持ちが悪くなって、トイレに駆け込みました。このあたりが、島耕作になりきれない私であります。

 今回、フロリダで参加した会議の議論を通じて、パレート改善的なスポンテニアス・オーダーのようなものの考え方の実現可能性を強く感じました。そして、この可能性、すなわち社会通念的な価値の共有やある種の社会「契約」が潜在的に存在するということこそが、米国の強みなのではないか、という感触を得ました。

 この点については、年末から関わっていた公共圏の議論や、これまで議論してきたシンクタンクや政策に関するプラットフォームの議論にも通ずるところがあるのですが、やはり、米国社会と日本社会には、大きな構造的な違いがあり、その米国社会と日本社会の構造的な違いは、個人の行動仮説も変える可能性が大きく、議論の前提が根本的に違うので、その点を十分に配慮しなければならない、ということを感じました。すなわち、市民社会やNPO論でもそうなのですが、米国の制度や政策、または政策的な考え方を日本に輸入してこようとしたときに、そのまま輸入したところで、日本では有効ではなく、「日本型」に翻訳する必要がある、ということです。

 「自由」という理念については、その理念の背景には、社会通念的な価値の共有、もしくはある種の「契約」が潜在的に前提になっていると考えられます。この価値や「契約」は、社会によって異なることから、多元性のある社会においては、人工的に「契約」を新たに作り出す必要があると考えられます。

 そもそも、米国社会が内包する社会通念的な価値は何なのか、共有する「契約」は何なのか、また、日本社会にとっては、何なのか、という問題を考えることが、政策の議論には重要で、この点が、現代の社会科学では抜け落ちているのではないかということも感じました。

 今回、「米国社会」と書いたのは、欧州には、まだ行っていないので、米国に限定という意味です。欧州に行き、これが、欧米では共通するものなのかどうかを調べてきたいと思っています。

 公共圏やシンクタンク論の議論について、若干、補足をしておくと、「場」の形成ということは、ある程度のノウハウとテクニックがあれば実現は可能です。問題は、議論の継続性、持続性、実現性というところにあり、これが機能するところは生き残っていくし、機能しないところは消滅していくという生存競争があるように思えます。こうした「場」のコーディネーターなりプロデューサーの要件には、ファンドレイジングの力やコーディネート能力の他に、このアイディアを、どのように生み出すことができるのか、ということが極めて重要になってくるであろう、ということも、今回の出張で、多くの米国の政策アントレプレナーと交流することで感じました。

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