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平井堅と勝手にコラボ?

 今回の新作、「愛の流刑地」は、平井堅の新曲「哀歌(エレジー)」を受けて、作ったものです。

 「哀歌(エレジー)」は、平井堅が渡辺淳一の「愛の流刑地」を読んで、インスパイアされたものを、女性の視点から描いたもののようです。これが、映画「愛の流刑地」の主題歌になっております。

 そこで、ぼくは「愛の流刑地」からインスパイアされたものを、男性の視点から描くことで、平井堅の「哀歌(エレジー)」への返歌とすることにしました。ということで、勝手にコラボ企画という形で作詞しました。

 ぜひ、平井堅の「哀歌(エレジー)」を聞いた後に、この作詞も読んでいただいて、視点の違いを堪能しながら、渡辺淳一の「愛の流刑地」を読んでください。

 今回の最初の構想は、ギリシャ神話の物語をモチーフに、人間関係の儚さや疑心などを描こうとしていました。例えば、オルペウスの話やアポロンの話をモチーフにしようと思っていました。人間の知恵というものは、大きな感情の前では無力であると、最近、考えています。そして、相手への疑念や疑心というものは、取り返しのつかないことをしてしまう、それを悔やんでも、哀しいけれど、どうしても取り戻せない、という部分を描こうと思っていました。人は、いくつもの、そうした心の傷や哀しみを持って、生きているものなんだろうと思います。

 ただ、人間は、「愛する」ということなくして、生きていくことはいけない、とも思います。

 光もなく、音もしない、漆黒の闇の中で、人間は、ただ一人、生きていくことができるのか。そして、その人間が、深い哀しみを持っていたとしたら、何が、その人のことを支えることができるのだろうか。その唯一の答えかもしれないのが、「愛」なんであろうと思います。

 もちろん、「無償の贈与」は、神でしかできないことで、弱い人間には難しいです。どうしても、何かを期待するし、得たいと思っている。つまり、人間が行う贈与とは、「好意の「交換」」であるというのが、中沢新一先生の説です。「好意の「交換」」とは、打算的であるとかそういうことではなく、もっと人間の本質の部分に関わる問題です。

 贈与の相手に裏切られても、好意を踏みにじられたとしても、それを許せることができるのは、神だけであり、もしかすると、キリスト教では、この原罪を背負ったのが、イエス・キリストである、ということなのかもしれません。

 人間は、本当に弱い生き物で、さまざまな感情を持っています。この「好意の交換」を成り立たせるためには、信頼が不可欠ですが、得てして、人間は堕落し、時にして自制心を失います。聖書の物語では、このような場合に、必ず、天罰が下り、アダムとイブは楽園を追放され、バベルの塔は崩壊し、ソドムの街は滅亡します。ルカによる福音書第10章では、こうした信頼・「贈与」に関する規律を述べているように、ぼくは理解しています。人間は、弱さゆえに、好き勝手な生き物であります。ぼくも、そんな人間の一人であるし、愛しく感じます。だから、「好意の交換」をしたいと考えるわけでありますが、なかなかうまくいかない。そこが、非常に悩ましく、そして哀しくなるのです。

 こんなことを考えつつ、渡辺淳一の「愛の流刑地」、平井堅の「哀歌(エレジー)」にインスパイアされた作詞が、新作「愛の流刑地」です。

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