コミットメントするとはどんなことなのか?
それでは「コミットメント」はしていないのか、というと、そうではなくて、「巻き込まれている」形であったり、自分の意思であったりと形は変わりながらも、いつのまにか、違うかたちの「コミットメント」はしているのである。たとえば、『羊をめぐる冒険』では、「鼠」からの手紙を通じて、「羊」探しに巻き込まれる。これは、明らかに、人間の内なる空間なり世界にコミットメントをしていっている。「鼠」や「羊男」というのは、人間の内なる空間の象徴なのだ。『ノルウェイの森』では、「直子」を通じて、『国境の南、太陽の西』では、「島本さん」を通じて、内なる世界にコミットメントしている。
ここで、再び、村上さんの発言を引いてみよう。
「僕が小説家になって最初のうち、デタッチメント的なものに主に目を向けていたのは、単純に「コミュニケーションの不在」みたいな文脈での「コミットメントの不在」を描こうとしていたのではなくて、個人的なデタッチメントの側面をどんどん追求していくことによって、いろんな外部的価値(それは多くの部分で一般的に「小説的価値」と考えられているものでもあったわけだけれど)を取り払って、それでいま自分の立っている場所を、僕なりに明確にしていこうというようなつもりがあったのだという気がします」
それに対して、河合隼雄さんは、「いまの若い人たちも、この静かなコミットメントということがわかると、それは実に強力な若者のムーブメントにつながっていきそうに思います。頭だけではなく、自分の全存在をコミットさせることを学ぶ必要があります」と言っている。このときの「静かなコミットメント」とは、「一般に考えるように「なんでもしてやろう」とか「頑張ってやろう」というのではなく、外見的にはむしろデタッチしているかのようにさえ見える」と説明している。
(「政策空間」6月号に所収作品)
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