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ツナガっていたい人たち:ネットワーク依存症 ≒ セックス依存症

 「ツナガっていたい」人たち、と言っても、エッチな話ではない。ただ、セックスなんかも、もしかすると、同じことが言えるかもしれない。ただ、これから書くのは、「仲間意識」なり「ネットワーク」という話だ。

 社会経済生産性本部が発表した今年の新入社員は、「ブログ型」だそうだ。

これは、「表面は従順だが、様々な思いを内に秘め、時にインターネット上の日記を通じ大胆に自己主張する。繊細な感受性とブログ的なネットワークに優れるが、パソコンに語るだけに止まる傾向もある」ということらしい。

 ここで、ここで言う自己主張が一方通行的なものなのか、それとも双方向的なものなのかについては、一考の価値はあるだろう。ブログというのは、もちろん、コメント機能やトラックバック機能があるから、双方向コミュニケーションは取れるのであるが、書きたいことが、好きなように書ける。編集機能というかチェック機能は、ブログを書いている人自身に委ねられるから、なんの制限もない。

 だから、ブログというのは、選択権は読者に与えた上で、(つまりそのブログを読むか、読まないか)、かなり一方通行的な自己主張なのではないかと思うのである。

 だって、ぼくは、たとえば、「○○さんが好きだ」と、ここで書いたところで、読んでくれている人にとっては、「あー、彼は○○さんが好きなのか」ということを思うだけだ。

 また、ブログというのは、仮面を付けられる。もっと言えば、なりすませることができるのだ。たとえば、「ぼくははイケメンです」とぼくが書いたとしよう。もちろん、「そう」なのだが(笑)、もしイケメンでないと仮にしても、「君はイケメンはないよ」と修正を求められることはない。だれも「間違っている」とは言わないし(編集チェックは入らないし)、もっと言えば、誰にも迷惑はかけないから、ぼくはイケメンでなくても、イケメンと書くこと自体は制限されない。だから、極限的なナルシストにもなれる。

 重要なのは、自己主張とコミュニケーションは違うということ。もちろん、コミュニケーションにおいて、自己主張は重要だ。しかし、自己主張はそのままコミュニケーションではない。

 社会経済生産性本部の解説によれば、「さびしがりやで繋がりたがったり、自分を認めてもらいたい強い欲求を持つ。認められると思いがけない力を発揮することもある一方で、本人の気分や他人の評価ひとつで、すぐに萎えてしまう傾向もある」ということらしい。

 つまり、本来、人間の成長過程の中で「通過儀礼」として得られる自己承認が得られていないということなのかもしれない。この一文だけ取ってみれば、「まだ子どものまま大人になってしまった社会人」ということだろうか。

 このツナガリたい人たちは、どこに行くのだろうか。ツナガっていたい人たちは、なぜツナガリたいのか。それは、承認を得たいからだ。それも苦しい「通過儀礼」を経ずに。楽して、大人になれれば儲けもの、みたいな発想だろうか。

 誤認した「仲間意識」という大義を立てて、異なる価値観を持つ人なり、「仲間」ではない者を排除しようとする。これは、自分と同じようなタイプではなければ、承認を得られないからだ。そんな弱さが、こういう行為を引き起こすのである。

 同じようなタイプの人間と「ツナガっている」ことで、承認を得られたと錯覚する。すると、誰しも自分が認められている社会では気持ちがいいので、その場所に定住するようになる。また、せっかく得られた承認を奪われたくない、つまり、客観的な評価を受けることで知る真実から目を背けたいから、その自分勝手に作られた自分の社会を乱すような行為者を排除するのである。

 ただし、客観的に見れば、その人は、承認を得ていない。つまり、自己評価と他者からの評価が、大きく食い違ってくる。それをどのように認識するのかと言えば、「社会は自分をわかっていない」とか、「なぜ、認められないのか」とか、原因を自分ではなく、社会にあるものだと誤認する。だから、「本人の気分や他人の評価ひとつで、すぐに萎えてしまう傾向もある」のだ。

 ブログ型人間というのは、確かに自己主張は強いが、その自己主張にどこまで責任を持っているのかが疑問である。それに、批判されることに、かなり弱いと思う。そのような弱さを抱えつつ、自分を演じることで、同種類の人たちと限られた社会・ネットワークに依存する。そして、「仲間意識」を誤認として、内閉的な世界に留まる傾向があるような気がする。

 実は、依存症というのには、こういう共通性があるのかなとも思う。例えば、セックス依存症。もしくは、援助交際。援助交際に関しては、宮台真司氏の研究などで、やはり「承認を得るための行為」であると説明されている。たぶん、セックスも、もちろん、性的欲求を満たすことはあるのだろうけど、承認欲求みたいなものもある。

 女の子と寝ていて、やはり、自分が好きな女の子と寝ているのと、行きずりで、ただ単純に雪かき的にセックスするのとは、得られる満足感は違う。セックスそのものも承認のための通過儀礼なのであろうと思う。

 真のセックスは、基本的に、自分の好きな人に自分の気持ちを受け容れられて、発生する行為だからだ。つまり、セックスは承認行為であり、セックスの本質はアタッチメント行為があり、人間の自己承認に極めて重要なのであるとも言える。

 交流とか仲間作りとか、もしくは「ツナガリ」というのは、まさに、社会化されたアタッチメント行為であり、自己承認行為で、通過儀礼になるべきことであり、内閉的な世界を作るものではないと思う。

 ツナガルことに価値があるのではなく、ツナガッているからこそ、何かが始まるのである。

 ネットワークという果てしなく広大な大地という全体の中で、本当に自分を見つめ続けていられるのか、その全体と自分の関係性を明確に意識できているのか、つまり、自立ができているのかが重要である。「ツナガッている」ことや「ナカマ」であることに安心して、自分を見失っていないか、ということを、常に自分自身に問うことが、ネットワーク依存症にならないために必要なことだろう。

 ツナガルことは目的ではなく、手段である。それ自体が目的化した瞬間に、それはネットワーク依存症であるということだ。

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