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村上春樹のこと

 日曜日の日本経済新聞朝刊2面の風見鶏は、「村上春樹現象をどう読む」でした。
 今年のノーベル文学賞は村上春樹氏ではないかと言われている。それは、村上春樹氏は、今年の10月にフランツ・カフカ賞を受賞するのであるが、実は、2004年、2005年のカフカ賞の受賞者は、その年のノーベル賞も受賞しているからだ。そうすると、川端康成、大江健三郎に続く、日本人で3人目のノーベル文学賞受賞者となる。

 日経新聞によれば、村上作品は30カ国以上で翻訳されており、欧米・アジアでも多くの支持者がいるという。確かに、「象の消滅」、「海辺のカフカ」は米国で大ヒットしたというし、日経によれば「海辺のカフカ」仏語版が既に4万8千部売れているらしい。

 さて、村上作品と言えば、社会に対して、どちらかというと批判的である。『ダンスダンスダンス』は、大量消費社会に対するアンチテーゼのようなものだし、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の「鼠」や「僕」は、どこか世の中に対して冷めている。『ノルウェイの森』の『僕』は、確実に「ノンポリ」で、学生運動などの熱狂を冷ややかな目で眺めている。

 それは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でも『ねじまき鳥クロニクル』でも『海辺のカフカ』でも、『僕』なり『私』なり『カフカ少年』は、世の中と一線を画している。いや、画そうとしている。

 これは、村上春樹氏自身が「アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということが関わってくるんでしょうね」(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』)と述べているが、たぶん、『僕』はデタッチメントしていくベクトルの中にいるのだけど、社会が放っておいてくれず、やがて、「「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです」という形で、コミットメントしていくのである。それが、『ねじまき鳥クロニクル』の過程であろう。

 『ねじまき鳥クロニクル』では、「僕」は社会からデタッチメントしていこうとするのだけど、加納マルタやクレタ、綿谷ノボル、笠原メイ、シナモン、ナツメグ、牛河、間宮中尉などが、「僕」を放っておいてくれず、「僕」は意識の井戸の壁を越えるために、コミットメントすることになるということであろう。

 日経の記事では、「中国で「ノルウェイの森」が読まれるのは政治的意味がある。金持ちではないし、金もうけしようとも思わず、束縛を嫌い、上昇志向とは縁遠い、非政治的な若者たちの生活の前提にあるものは、日本の民主主義や消費社会である。30年以上も前からこんな若者たちがいる日本が軍国主義化するとは普通なら思わない。中国当局にとって自国の若者がそんな生活にあこがれるのは痛しかゆしだろう」と言う。でも、この指摘は少し違う。

 たぶん、村上流のデタッチメントに共感できるようになったということではないだろうか。そして、少しずつ、新たな形のコミットメントに向かいつつあるということなのではないだろうか?

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