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ぼくにとっての大町久美子:つまり心の中の永遠のマドンナということ

 ぼくの小説、「今夜、夢の中で君に出逢う」や「半島のさき」を読んでくれた方から、これはやおいたさんの実体験ですか?とか、モデルはいるんですか?とか、そういうことを聞かれることがある。

 この質問に対して、ぼくは、少し弱めにNOと答える。

 小説の内容が、ぼくの実体験そのものではないが、これまで、ぼくが生きていて経験したり、感じたりしたことは、含まれているから、はっきりとNOというようには自信がない。YESではないが、NOでもないのだ。

 じゃあ、モデルはいるのか、ということなのだが、「僕」は決してぼくではない。つまり、I am not I なのだ。でも、near イコールな感じでもある。つまり、I am not somebody なのだ。なかなか難しい。

 例えば、ユキコさん、これも特定の誰かではない。もちろん、ユミもナツコさんも。

 前に書いたかもしれないが、名前とは、それ自身にはあまり意味を持たない。どちらかというと、標識のようなものだ。他者と自分を区別するシグナル、それが名前の最も原始的な役割だと思う。だから、ユキコさんは、ナツコさんだったかもしれないし、ユミはサキだったかもしれない。そこに、あまり重要性はない。

 しかし、ユキコさんたる何かしらの感情や肉体は、ユミでもサキでもない。ましては、ナツコさんでもない。ユキコさんはユキコさんなのだ。つまり、重要なのは、目に見える、ひとつの現象の表現ではなく、現象そのものなのだ。

 だから、ぼくのなかで、構築されたある種の人格(?)、もしくは現象は、特定の誰かのものではなくて、これも、ぼくの中で自発的に生じた全くオリジナルな存在なのだ。

 その中で、ぼくは、小説を書くことを通じて、自分の中にある壁に挑戦をしている。

 ぼくの恋愛の中で、村上春樹の作品は、ある一定以上の意味を持つ。昔の彼女に、「国境の南、太陽の西」の主人公は、きっとぼくのことだと言われ、「ノルウェイの森」も進められた。

 「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」は、やはり好きな人から進められ、早速、次の日、米国に旅立つときの空港の書店で慌てて買い求め、米国旅行の間に、半ば、彼女のことを思い出しながら読んだ。

 そのあと、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」も「ねじまき鳥クロニクル」も、その彼女に会うことのできない寂しさを抱えながら、彼女を思い出しながら、読んだ。

 村上春樹作品には、少なからず、ぼくの恋愛と微妙に関係しあっているのだ。

 だから、ぼくは、文章を書くことで、新しい世界観への刷新を図らなければならないのだ。

 今日、僕は、「心の中の永遠の恋人」というものが本当に存在することを知った。島耕作にとっては、大町久美子であり、僕にとっては、僕に村上作品を勧めてくれたあの女性である。

 何度も、叶わぬ恋だと知りつつ、諦めようとした。もちろん、手を伸ばしても、彼女の指に触れることさえもかなわない。手を伸ばし過ぎて、全くの反作用を起こし、彼女をたぶん、何度も怒らせているし、困らせているし、不快にさせている。でも、「ダンスダンスダンス」のユミヨシさんのように、僕の心から、彼女の幻影を消し去ることができない。なんども消せども、消せども、その肖像は消えないのだ。

 そう、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の図書館のアシスタントの女の子のように、「ノルウェイの森」の直子のように、「ダンスダンスダンス」のキキのように、「国境の南、太陽の西」の島本さんのように、「ねじまき鳥クロニクル」のクミコ、そして「海辺のカフカ」の佐伯さんのように、「喪失」や「死」そのものの象徴であり、また、、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の博士の孫娘のように、「ノルウェイの森」の緑のように、「ダンスダンスダンス」のユミヨシさんのように、「国境の南、太陽の西」の由希子のように、「生」の象徴、そして、「ダンスダンスダンス」のユキや「海辺のカフカ」のさくらのように、ふたつの世界を結ぶものの象徴として、彼女は、僕の前にいたのだ。

 僕は、彼女を喪失したけれど、僕は、いまのところ、まだ彼女のことを必要としている。

 実際に、彼女に会えば、僕は言葉を失う。そして、緊張するし、とても切ない気持ちになる。そして、自分を責める。自分の弱さが嫌になる。自己嫌悪の悪循環。

 永遠のマドンナとは、手が届きそうもない、はるか彼方の人。僕は、君のことが好き。もっと側に居て欲しい。そして、強く抱きしめたい。でも、そんな幻想が儚くも崩れ去る。

 夢から覚めたとき、僕は、夢の空しさに打ちひしがれる。そして、後頭部をハンマーで、ボカっと、強く殴られたような感じになる。

 そんな存在が、また僕をひとつ成長させるのだ。

 ヤオイタ的恋愛とは、ハードボイルドで、切なくて、ちょっと涙味のする、そんな恋愛でありたいと思う。

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