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無との交換

 昨夜は、隅田川の花火大会だったようで、浴衣姿の女性をよく見かけました。日比谷公園では、たぶん野外ステージで、何かイベントをやっているようで、音楽やらなんやらが聞こえてきました。
 
 街そのものの華やかな感じ、また街の持つパワーが、視覚的なものではなく、意識的なものとして感じられました。

 日比谷公園から坂を上がっていくと、国会議事堂があるわけですが、その騒がしさと対照的に国会議事堂の周辺は、静寂と闇に包まれていました。

 ほんの数キロも離れていない土地でも、視覚的にも、聴覚的にも、さらには意識的にも空間が分離されているような感じで、大変不思議な気持ちになりました。

 明と暗、光と闇、朝と夜、裏と表、正義と悪、生と死、この世界の中で、意識レベルで感じ取れる全てのものには、すべて相反する状態が存在するように思えます。それぞれの状態がそれぞれに相反する状態があるので、その状態は安定的となっており、もしいずれかの状態が失われてしまうことで、世界はとても不安定な存在になるのではないかと思います。

 言うなれば、入り口だけでも出口だけでも、それは存在し得ないわけで、入り口と出口があるからこそ、構造が安定するのであると言えるのではないでしょうか。

 相反する概念を独立的な言葉として明確に表現しえないとき、私たちは、「不」や「無」というような言葉を使用します。例えば、安定ということにおいても、「不安定」、秩序についても「無秩序」などです。

 つまり、どのような状態についても、全て双対的に概念なり、状態が存在しており、それを私たちは言葉によって表現しうることができるのです。

 しかしながら、ぼくたちには、どうしても説明ができないことがあります。

 人間の進歩というものは、科学的な手法で、物事の法則を発見したり、概念や状態を論理的に説明しようということの繰り返しです。ですから、私たちは未だ発見していなかったり、説明できない法則、概念や状態があるわけです。

 それらは、人間に対し、多くの恐怖感を与えるわけです。この恐怖感は、人間の意識なり根源的な核のレベルを脅かす畏れとなり、人間の行動に大きな影響を与えることになります。そこで、私たちは、その畏れを表現することを発明します。さらには、その「無」の存在のものをできるだけ「有」の形に表象化し、その記号的な「畏れ」の対象に対して、贈与を行うことによって、その畏れを少しでも和らげるということをするのではないでしょうか。

 「無」というものは、常に「有」の世界であるぼくたちの世界に双対的・相対的に存在します。だからこそ、「有」の世界が安定的に存在し、確立しているわけです。これらの世界は表裏一体となっていて、メビウスの輪の如く、常に接点が存在し、何らかの交換が行われていると考えることができます。

 何が本当の真理なのか、何が偽物なのか、それは、たぶん誰にもわからないことなのですが、ぼくがこの世界に生きているということは事実で、そして、社会へのコミットメントということは、何か積極的に社会に対して行うということではなく、もちろんその意味も含まれるわけですが、もっと根源的に考えれば、ぼくたちがそこに存在している、そこで生きていること自体がコミットメントなのではないかと思いました。

 ちなみに、ぼくは大学生の頃、中沢新一先生の「比較宗教論」の授業で、「有」と「無」について教わりました。ぼくの記憶が間違っていなければ、その接点として「祭り」を例にお話されていたように記憶しております。

 それは「祭り」だけではなくて、たぶん、世の中のいたるところに、接点が現れるものだと思います。

 ここで思い出したのは、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と「海辺のカフカ」の世界観でした。

 ※世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 
 ※海辺のカフカ 

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