赤い蝋燭(2)
僕が彼女に会ったのは初夏だった。あの年は、どちらかというと冷夏で、テレビなんかでは海水浴場では、海の家が商売にならないとか、そういうニュースが毎日放送されていた。そんなニュースを僕はぼんやりと、日本って平和だなぁと思いながら、(もちろん、海の家とか夏にまとまった収益を出さなければいけない商売にとっては死活問題なわけで、こんなことを言うと、きっと僕はそういう人たちからは怒られるだろう)、彼女に少しずつ恋心を感じ始めていた。
あと、思いだせるのは、雨が多かったということだろうか。まあ、ちょうど日本の季節的には梅雨なわけで、この時期に雨が少ないと問題ではあるが、彼女に会うときは、いつも雨が降っていたような気がする。雨が少ないということでは、確か僕が小学生の頃、深刻な水不足になったときがあって、東京ではぎりぎりなんとかなったらしいけど、もっと違う地域では給水車が出るとか、そんなことがあった。そんな経験から遺伝子的に「水を大切にしなければ」ということが植えついていて、梅雨とか夏に雨が降ると、少しほっとする。
僕はその頃、大きな失恋をした後に、小さな失恋をいくつかした後で、暫く恋愛はいいかなと思っていた。僕は当時、恋愛はとても苦しいものに感じられていて、胸を締め付けられるようなことがとても辛くて、一喜一憂というような心の変化もなんだか楽しめなくなっていた。そんなときに、彼女が僕の前に突然現れたのであった。
僕と彼女は、確か仕事の関係で出会った。「確か」という言葉を使ったのは、記憶はたいがいにして美化される。とくに恋愛に関する記憶は、大抵美化され、大げさに記憶に残る。たいした出会いでなくとも、二人の間では、とてつもなく素晴らしい出会いになってしまう場合もある。「あばたもえくぼ」という言葉があるが、また「恋愛は人を盲目にさせる」という言葉もあるが、実はたいしたことがなくとも、素晴らしく見えてしまう、それが恋愛の魔力なんだろうと思う。
彼女の名前は、今ここではあまり重要な意味をもたないだろう。ここで重要なのは、「確かに」一定の期間、僕は彼女に恋をし、愛していたこと、そして彼女も僕に「きっと」恋をして、愛していたこと。それが時間が経過していくとともに、彼女の気持ちは、徐々に僕から離れ、そして「確実に」僕よりも先に別れを意識したということである。そして、結果として、彼女と僕との恋愛関係に終止符が打たれたということである。さらには、そのことの責任は全面的に僕にあるということである。
ただ、ひとつの目印というか識別という意味で、「仮に」彼女の名前を決めておくのであれば、「ユミ」という名前で彼女を呼ぶことにしよう。
ユミは、自立した女性であった。自立した女性であったといっても、フェミニストだとかそういうことではなく、しっかりとした「考え方」、「価値観」を持ち、僕よりもずっとずっと大人であった。僕がまだまだ若かくて、子どもであったということもある。それでも、ユミは、はるかに大人の女性であった。
だから、僕にとっては恋人であると同時に、「お姉さん」的な存在であり、僕は表面上は、彼氏として振る舞うが、内面的には、全面的にユミに依存していた部分が強い。僕は、恥ずかしいから自慢にはならないが、精神的にけっこう弱い部分があって、目の前に困難があると、不安になったり、考え込んでしまったりする。そんなとき、僕は少なからずユミを逃げ場にしていたことは否定できない。
その意味では、ユミは僕にとっては出来すぎた彼女であったのであろう。その悪循環が彼女の気持ちを少しずつ僕から遠のかせることになったと、僕は今にして思える。
だから、僕が今、ユミに伝えたい言葉は、「ありがとう」という言葉である。
今、目の前に広がっている光景は、僕がユミと最後に別れたシーンの再現ではなく、明らかに別のシーンである。だから、記憶のフィードバックとかそういうものではなく、たとえるなら、押入れの中にしまわれていた古いアルバムの中から、今まで見たことない新しい写真が見つかったという感じだ。
僕は、確か新宿の古ぼけた店にいて、その店主の老人は赤い蝋燭に火を灯していた。その瞬間、僕は意識が遠のくような感じがして、少し眠くなって、目を閉じた。次に目を開けた瞬間に見た光景が、この新しい写真であった。今、目の前にいるのは、あの冷夏の年の初夏に出会ったユミであった。
お別れのキスをして、「願わくば、またキスをしたいな」と言っている僕は僕自身ではなかった。
なぜなら、僕はそう言っている僕も見えているからだ。つまり、主観ではなく、第三者の視点からユミと僕を見ていることになる。しかし、彼女が何も答えなくなってから、明らかに写真の中に僕はいなくて、僕の目を通じて、ユミだけが見えている。客観的視点から急激に主観的視点に変わったのだった。
僕は、一所懸命、何かを発しようと、適当な言葉を頭の中で、考えていた。
そのときに、無意識で出た言葉が、「ありがとう」だった。
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